西宮市塩瀬町生瀬 国道176号線から西(蓬莱峡、有馬)に分かれた県道51号のしるべ岩バス停の崖下に
東を正面に建つ
自然石 240x340x400p(文字部147x21p)(顕彰碑116x43x18p、内法91x30x3p)
N34.81115 E135.302495


東面
┌─―――――――――――――――┐
│右ありま道 │
└――――――――――――――――┘
その他の面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし) │
└――――――――――――――――┘
(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、28)
(上部に顕彰碑が建つ。)
(場所的、大きさからして、ほぼ移動はしていないと思うが、転落防止の為の下部補強や、横の砂防ダムや、
県道、建設などにより、手が加えられている事は、明らかである。
河川敷(私有地であるらしい)にある事もあり、旧道の有無は確認不可能であるが、「右ありま」は太多
田川北岸をそのまま遡上することを示しているらしい。
では「左」への道があったのか、顕彰碑等からすると、川を渡り、座頭谷(南)への道があったとすべ
きであるが、道があったのではなく、誤って別の谷筋に入り込まない為の案内だったと思う。)
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【1.現県道51号上にある |
【2.しるべ岩への降り口を |
【3.下り道を南下に望む |
バス停しるべ岩を東に望む |
西に望む、倒れ掛かった |
傾斜60度を20m下ると |
右(南)崖下に岩有り】 |
パイプを左(南)へ下る】 |
正面にしるべ岩】 |
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【4.河原から5m上地点で |
【5.文字部分拡大 |
【6.すぐ南の堰堤 |
しるべ岩を西に望む |
岩を北西に望む、今は |
少し下らないと対岸へは |
右へ岩を廻り込む道か?】 |
座頭谷へのハイカーが通るのみ】 |
進めないと思う】 |
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【7.県道より南西を望む |
【8.しるべ岩を北東に望む |
正面は迷い込み易い |
右下人影の左上辺り】 |
とされる座頭谷】 |
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【9.西宮北部の道標】 |
上部の顕彰碑
116x43x18p(文字部内法91x30x3p)


┌─―――――――――――――――――――――┐
│往時豊太閤有馬入湯能際此處に於て旅人の │
│屡に迷ふを聞き此岩に右ありま道と刻して │
│道しるべとせりさ以来人傳へで志るべ岩と云ふ │
└――――――――――――――――――――――┘
(「屡」は、「しばしば」と読むらしい。)
(確かに、南西への谷筋の方が開けており間違えて入り込むことは無きにしも非ずと思うが、
その先に通じる道もなく、沢を徒過する必要もある為、自然にそちらへ進むことが多いとは
思えないし、座頭(一般に盲目)さんが、一人で道に迷う等も余りにも物語めいており、作
り話であろうと想像する。
当所は、明治以降だけでも、砂防ダムの建設が何度も行われており、秀吉の時代以降から
ともなれば(400年)、この大きさ程度の岩であれば、流され落ちていて当然であろうと思う。
よって、割合と近年に彫られた物の様におもうのは、私だけでしょうか。
又、上に載る顕彰碑も、セメントにより岩に止められており、真実味を帯びず、観光を目的
とした、演出ではないかと思う。
太閤に関する、創作された話として、高槻の「太閤道」があり、その様なものではないか。
「太閤道」については、中国大返し伝承「太閤道のインチキ」を参照下さい。)
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【10.碑を南に望む |
【11.しるべ岩下を西に望む |
下の岩の左側面に |
右しか行けない気がするが |
右ありま道の文字】 |
登らずに左に沢を渡ったのか】 |
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