23.箕面市粟生間谷西3の道標

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箕面市粟生間谷西3−23 南東から北西へクランク状の道(巡礼道)の東側、天満宮境内北西部に南を正面に建つ
(中村天満宮、境内の北西部から、巡礼道に出る口の、石垣前にある。)
蒲鉾型角柱 58x14x18p(頂高3p)(基礎部3p)
N34.847372 E135.510956


写真eimg3341

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写真eimg3354

南面
┌―――――――――――――――――┐
│右かちをうじ           │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――┐
│左そうじ寺            │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘


(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では、41)
(同書に「南面に「右かちをうじ」とあるので現位置では不適当であり、もとは天満宮南の三叉路の北西
 の角に現南面を東向きに、…立っていたものと思われる。」としている。この南の三叉路が、何処を指
 すか不明確であるが、下の写真5.であるなら、「今は西(東から来て直進方向)に道があるが、明治の
 地図には無く三叉路であったかどうか解らない。」点が気になる。
 もし、今と同じ三叉路があったのなら、辻から川に下り、川沿いに南へ進み、中村から外院への道に出
 ると思われ、西へは直進となっている辻の構造上、真っすぐ進みやすく、誤進入を防ぐために立てたと
 する事は納得できる。)
(南面上部、頭頂部にかけて、少し石が欠けている。にもかかわらず「右」の字が消えずに残っているの
 は、元々欠けた石に字を彫ったものか、欠けた後、修正を加えたかのどちらかであろう。又、「右」の
 「ロ」の辺りも何かスッキリせず、追刻も考えられる。
 もしそうなら、元位置の推定も変わる可能性が出てくるが、如何であろうか。
 明治の地図にある辻として、最も可能性のあるのは、現在「粟生間谷西3の十丁石」の丁石がある地点
 で、筋違い四辻の南東部、或いは北東部の角辺りに、現南面を北面して建っていれば、案内に関しては
 ほぼ納得出来るが、南の外院帝釈寺方面への案内も欲しくなる。

 写真5.の地点は
N34.846913 E135.511075
 写真7.の地点は
N34.847024 E135.511841
 辺りと思われる。)

写真eimg3346 写真eimg3345 写真eimg3348
【1.天満宮を北に望む 【2.天満宮を北西に望む 【3.道標を東に望む
 垣沿いを勝尾寺へ  堂の左の石垣の  石垣にもたせ掛ける
 その左は民家へ】  左端に当道標】  様に建てている】

写真eimg3360 写真eimg3364 写真eimg3361
【4.道標を北西に望む 【5.元位置とされる 【6.同左辻を西に望む
 上部が欠けているが  三ツ辻を南に望む  右(北)天満宮へ
 「右」は欠けていない】  中央電柱辺りか】  奥、左に下り川へ】

写真eimg3325 写真dimg2458
【7.元位置の可能性が 【8.箕面市の道標】
 ある辻を南に望む
 マンホール右辺り北面なら】
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