52.茨木市山手台4丁目の道標2/3

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茨木市山手台4丁目 山手台中央公園北西部、三基の内、中央に南を正面に建つ
自然石(板碑形) 78x60x26p
N34.863198 E135.5511


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南面
┌────――――――――――――――┐
│左上牧               │
└――─―――――――――――――――┘

西面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘

北面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘

東面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘


『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では34)
(同書に「茨木サニータウン造成中に移動された…」と「豊能町にある上牧を指すのであろう。本市下音羽、銭原を経
 て豊能町切畑、そして上牧に至る。」としている。
 移設は間違いないが、これも元の位置の状況は書かれていない。
  又、「上牧」の同定が出来ておらず、亀岡街道(R423)の余野から北、京都府境近くに「牧」なる地名を見掛ける
 が、ここに「上牧」があるのか、一つ珍説を挙げて、今後の調査としたい。
 珍説とは、「左」「上牧」ではなく、「左上」「牧」と解釈することである。西横にある題目道標が、元国見峠の頂
 上に有ったとされ、同じような位置に置かれていたなら、単に「左」へ進む道と区別がつきにくく、「左上」への道
 があった為。
 というものである。道標でこの様な表現は他に類例を見ないが、あり得るのではないか。
 (箕面に道標とは言い難いが「勝尾寺境内の徳本寺」を案内する石標に、「この上 徳本寺」なる表現がある。)
 「上」と「牧」の間がやや広く、「牧」が大きく見える。道標の上部よりも下部の風化が進むのも不思議。)
2021/9/17追記
 高槻市からの妙見道を検討すると高槻市氷室1丁目に三基の道標があり、妙見へ案内している。これを『大阪府史』
 の二等補助里道にある起点「三島郡芥川村大字郡家国道第三号路線」経由地「芥川村、阿武野村、石河村、清渓村」、
 終点「三島郡清渓村大字泉原仮定県道亀岡街道」を、『茨木市の道標位置地図』の図示された妙見道にあてはめると
 「桑原、(山手台5)、国見、赤才、一町田、泉原」と読み取れ、当地を経由していると出来る。
 そこで、氷室から西国街道経由で高槻、萩之庄(又は梶原)、上牧とすれば、高槻市上牧で問題はないと出来る。
 なぜ芥川や高槻を案内しないのかと問われた場合は、施主が上牧の人であったとする考えはどうであろうか。
2022/3/24追記
 高槻市氷室1丁目に三基の道標としたが、現在は明治の一基のみになった様である。

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【1.道標を北に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を北東に望む
 左三基が道標、右へ  左から二番目  左(北)大岩へ
 石碑、案内板、古墳】  自然石が当道標】  右三叉路を南東安威へ】

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【4.道標を北に望む 【5.道標上部
 「上牧」とは  上部の風化は
 何処にあるのか】  余り進んでいない】

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【6.茨木北部の道標】
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【7.茨木南部の道

2021/9/17追記
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【8.氷室町の二基を北西に望む
 「右 妙見道」とあり
 土室から桑原、山手台へ】

2022/3/24追記
写真iimg0448
【9.氷室町の一基を西に望む
 2021/9/24日時点の様子
 建設中なので、その後は?】
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