39.茨木市忍頂寺249の道標2/2

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茨木市忍頂寺240−1 忍頂寺(寿命院)正門前の石段下から16m南の東側に、南を正面に建つ
(微視的には、南西から北東の舗装道に、南東から西への旧道(痕跡)の四辻。)
(二基有る内の南側背の低い方、文久三年の道標)
尖頭型角柱 126x15.5x15.5p(頂高5p)
N34.894916 E135.544152


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南面
┌────――――――――――――――――――――┐
│是ヨリ                     │
│   龍王山 八丁               │
└――─―――――――――――――――――――――┘

西面
┌────――――――――――――――――――――┐
│ 文久三年亥三月建之              │
└――─―――――――――――――――――――――┘

東面
┌────――――――――――――――――――――┐
│ 施主 阿州遠藤直左ヱ(門)          │
│      世話人               │
│          當村(□三)        │
└――─―――――――――――――――――――――┘
(( )部は『わがまち茨木』より)

北面
┌────――――――――――――――――――――┐
│右 大坂 茨木                 │
│           道            │
│左 柳谷(道中)                │
│     立石阿ふ               │
└――─―――――――――――――――――――――┘
(( )部は『わがまち茨木』より読み下した)


(文久三(癸亥)年三月1日とするなら、西暦1863年4月18日土曜日となる。)
(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では43)
(同書に「柳谷は現在の長岡京市浄土谷柳谷のことでここには楊谷寺がある。」とあり、。
(近隣の方の話によると、南数メートルからの近接移設とのことで、現在の位置では、南方向から来ていたと思われる
 道を、遮断する状態になり不自然であり、もっともであると思う。元位置と思われる所に現在石灯籠があることは、
 前述1/2の道標と同様であるが、こちらの道標は一度の移動だけで、向きも今のままで不都合は無い様に思えるが、
 此方が先に設置されていたはずなのでより、辻のベスト位置に有ったとし、南北の位置関係が入れ替わって、北側に
 有ったとしたい。
  2年後に、今ある北隣の「慶応元年の道標」を建設するにあたって、当道標のすぐ側に建てるとするなら、西面を
 塞いで立てることが最善策(紀年部が隠れる)であろうと思われ、この時「神峰山寺」は「右(南東方向)」を指す
 ように彫られていたはずである。
 これ以降「右」が削られたとする話は、「慶応元年の道標」の項を参照下さい。)
(さて、こちらの北面にある、「道中」以下の「立石阿ふ」であるが、道中を柳谷に至るまでの間にあると解釈し、高
 槻市に「原立石」、高槻市奈佐原辺りに「阿武山」なる地名が見出されるも、何れの地名も天保国絵図に村名として
 は見当たらず、これに同定するには、いささか心もとない。
  尚、道標に「道中」なる記述は珍しく、読み下し自体が間違っている可能性もあるし、単に地名かも知れない。)
(天保9(1838)年絵図は、国立公文書館デジタルアーカイブの『天保国絵図摂津国』を、
 同じく『山城国』を参照下さい。)

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【1.道標の有る一つ南の 【2.道標を北東に望む 【3.道標を南に望む
 辻より北東方を望む  右側が当道標  奥(南)大坂茨木へ
 奥(北東)忍頂寺へ】  左は40道標】  黒塀を左は柳谷へ】

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【4.道標南面拡大 【5.道標南面下部
 「龍王山 八丁」  左面「…八丁」
 正面は北東を示す】  と読める】

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【6.道標北面上部 【7.道標北面中部 【8.道標北面下部
 「右 大坂」  左「立石」はよく見え  左上「阿ふ」とした
 「左 柳谷」と読める】  右「道中」のくずし字?】  「阿」は変体仮名「あ」】

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【9.茨木北部の道標】

 2024/12/25 角柱を尖頭型角柱に訂正しました。
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