40.茨木市忍頂寺249の道標1/2

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茨木市忍頂寺240−1 忍頂寺(寿命院)正門前の石段下から15m南の東側に、西を正面に建つ
(微視的には、南西から北東の舗装道に、南東から西への旧道(痕跡)の四辻。)
(二基有る内の北側背の高い方、慶応元年の道標)
尖頭型角柱 126x15.5x15.5p(頂高5p)
N34.894916 E135.544152


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西面
┌────――――――――――――――――――――┐
│ 日本                     │
│左  神峰山寺毘沙門天王道           │
│ 最初     是ヨリ二里半          │
└――─―――――――――――――――――――――┘

南面
┌────――――――――――――――――――――┐
│         大坂        表具屋卯助│
│慶応元乙丑九月建之 日御供講山組施主 金屋善之助│
│                   金屋ヱ治郎│
│                   津国屋阿助│
└――─―――――――――――――――――――――┘

東面
┌────――――――――――――――――――――┐
│(なし)                    │
└――─―――――――――――――――――――――┘

北面
┌────――――――――――――――――――――┐
│(なし)                    │
└――─―――――――――――――――――――――┘


(慶応元(乙丑)年九月1日とするなら、西暦1865年10月20日金曜日となる。)
(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では42)
(同書に「神峰山寺は高槻市大字原にある寺院で天台宗延暦寺末、毘沙門天を本尊とする。」とあり、「神峰山」は
 「かぶさん」と読むらしい。当所は、忍頂寺(寿命院)のすぐ下にあり、高野山真言宗の寺らしく、宗旨が異なり巡
 礼は無いと思うが、此処に、案内が有る事は、ここから目指す人も多かったのであろう。因みに、忍頂寺の山号はこ
 れも、賀峰山(かぶさん)であるらしく、まさか、同名繋がりで巡るものでは無いと思うが、摂津名所図会にも大き
 く載るようで、巡拝の人が多かったのであろう。
  伝聞ではあるが、「かぶさん」への道標が、「茨木市忍頂寺198の道標」の道をはさんで西側に有ったとされ、
 ここから次を目指すルートであったのかも知れない。
  二里半は10qであり、車作、生保の北に南下し、東に峠を越え、関大の北を通り、霊仙寺町、摂津峡、城山、原を
 通るか、芥川の東側を行き東條、神峰山寺であろう。)
(神峰山寺は、国会図書館デジタルライブラリ、『摂津名所図会』[6]のコマ番号55で参照可能。忍頂寺は、同19コマ
 参照。)
(近隣の方の話によると、南数メートルからの近接移設とのことで、現在の位置では、南方向から来ていたと思われる
 道を、遮断する状態になり不自然であり、もっともであると思う。元位置と思われる所に現在石灯籠があるが、その
 場合、現在の西面は、北面して建っていたと想像され、南東への道を示していたであろう。
  更に、西面「左」が掘下げられている点も注意が必要で、表面を削ったうえ「左」と追刻されたなら、それ以前は
 「右」以外になく、南面していたものが、180度回されて、設置されたとなり、二回以上の移設も考えねばならない。
 尚、南隣に建つ「文久三年の道標」も同じく移設されているとのことだが、そちらの方が2年古く、その建設による
 移設とはし難い。)

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【1.道標の有る一つ南の 【2.道標を北東に望む 【3.道標を北東に望む
 辻より北東方を望む  電柱左が当道標  左側が当道標
 奥(北東)忍頂寺へ】  墓石の左41道標】  道標右へは旧道痕跡】

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【4.道標西面下部 【5.道標南面上部 【6.道標上部を望む
 「是ヨリ二里半」  「慶応元乙丑九月」  右後ろへ道路の痕跡
 (10q)と読める】  (1865年)と読める】  今は道を塞ぐ形に立つ】

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【7.茨木北部の道標】

 2024/12/25 角柱を尖頭型角柱に訂正しました。
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