16.高槻市白梅町4の道標

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高槻市白梅町4−1 旧西国街道とJR高槻から北への道との四つ辻の南東植込み中に北西を正面に建つ
板碑状 350x北西面63x30p
N34.854094 E135.618019


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北西面
┌―――――――――――――――――――┐
│国     北山           │
│ 毘沙門天王             │
│寶     本山寺          │
└―――――――――――――――――――┘

南西面
┌―――――――――――――――――――┐
│      西北二里         │
└―――――――――――――――――――┘

北東面
┌―――――――――――――――――――┐
│  大阪天満冷雲院主 探海書     │
│       京都 高村茂左衛門 彫 │
└―――――――――――――――――――┘

南東面
┌―――――――――――――――――――┐
│         大阪市 伊藤 大助 │
│ 大正六年六月建之          │
│             和泉金兵衛 │
└―――――――――――――――――――┘
(『高槻の道しるべ』より)


(大正六年は、1917年となる。)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、37)
(同書では、「造立年からみて、これは駅から本山寺への道筋を示す道標であろう。」としている。確かに方向と直線
 距離を示したとすれば、北へ7qとなり合わない、依って取敢えず進む道の方向として「西北」としたのであろうが、
 大正から現代に至るまで、駅から直接北西に続く道は無く、西行し、すぐ北に折れ、芥川から北西に進む経路と思わ
 れる。道標とするより、PR用寺標と言うようなものか。
  尚、同書に載る位置は、駅北、三方に分かれる歩道橋のエレベータの東
N34.852612 E135.618448
 辺りで、現北西面が南西面(現在より反時計回り90度)であったとしているが、その時点でも移設後と思われ、元位
 置近辺かも知れないが同様の疑問はあったと想像する。
 この位置は、大正7(1918)年に電池会社の工場が建設されたようで、その直前に建てられたことになる。
  又、現在の西横に有る説明板にも、「…寺は北西10qにあり…」とあるが、直線的な方向はやはり「北」である。
 ただすぐ北の山を避け、北西の真上から服部へ進み、その後北上する為、最初の「北西」の印象が強い為と思われる。
 10qを里数で表すと、2.54里となり、三里が正しいのかも知れないが、現在の神峯山から東に廻る道でなく、
 旧字の原上條辺りから、神峯山の西を通り尾根の西を進む道(明治地図には有)を採ったならば少なくとも1q以上
 短くなり、二里が正しいものになりそうである。この道は現在の国土地理院地図にもなく、少し東に尾根筋道がある
 ようだ。)
(ルートは違うが、 「100.高槻市本山寺丁石一覧」も参照下さい。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標の辻より北を望む
 奥(東)西国街道  左、歩行者信号の  背面(南)にJR高槻駅
 右、JR高槻駅へ】  下に当道標】  奥、上宮天満宮へ】

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【4.道標を南東に望む 【5.西横の説明板
 少なくとも2回移設  北西10qにありと
 右木陰に、説明板】  書かれている】

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【6.高槻南部の道標】
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