101.高槻市本山寺丁石一覧(鴻池右七郎の道標含む)

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目次
 1.参道概要
 2.1.川久保参道
   2.渓谷参道
   3.本山寺古参道
 3.丁石全般
 4.町名
 5.丁石一覧
 6.鴻池右七郎の道標
 7.金澤市兵衛の道標
 8.摂津名所図会

1.【参道概要】
 本山寺への参道として、南方面からの道に限ると、大きく2本あり、一つは、神峯山寺から来るもの、もう一つが
成合、川久保からの道である。
これを、丁石が建てられた頃で見ると、系統としては同じであるが、現在の参道とはかなり異なる部分もあり、明確
にしておきたい。
 先ず、川久保からは、水瀬川の川筋を詰めるものと、西側の尾根筋を辿るものと二本あり、川筋のものを、「渓谷
参道」、尾根筋を「川久保参道」と名付ければ、「川久保参道」は現在の車で登れる参道と多く一致し、「渓谷参道」
は、谷筋から、八丁丁石のある駐車場に合流する道と出来る。
 次に、現神峯山寺から、上記「川久保参道」に連絡している参道は、新しいものであり、丁石設置には無関係である。
しかし、それに代わる原から、神峯山寺の北を抜け、現在の三丁丁石のあるロータリーに出る道があり、これを入口
にある道標に倣って、「本山寺古参道」と呼ぶことにする。

2.【1.川久保参道】
 川久保からの尾根筋参道についても、時代的に3ルートが読み取られ、
1.明治期(明治44年刊地図より)(江戸後期も同様か)の参道。(鳥居〜勧請掛け2.2q(20丁))
2.大正期(大正11年測図地図より)の参道(鳥居〜勧請掛け2.3q(21丁))
3.現在2018年(昭和54年改訂地図)の参道(鳥居〜勧請掛け3.4q(31丁))
となるようで、
現参道はさて置き、大雑把に言うと、鳥居下から、諏訪神社を通る最短ルートが明治期で、現参道の一部を使い西に
迂回して「十七丁」丁石を過ぎて、明治期の参道に出るのが大正期参道で、西に迂回する分、1丁長くなる。
その他、大正期参道は、現「三丁」丁石のある1丁程の区間が、現参道を使っているようで、明治期の尾根筋道とは
違っているが、ここでは距離の差は出ないと思われる。
 依って、鳥居下の「二十丁」道標を動かさない前提に立てば、明治期の参道に丁石を配置しないと、矛盾が起きる。
 新旧参道の分岐、合流点の様子。
写真eimg8147 写真eimg8149 写真eimg8159
【@明治期参道入口か 【A諏訪神社を西に望む 【B大正期参道の分岐
 左、現参道  明治期参道は神社裏へ  右奥、現参道を鳥居へ
 奥、諏訪神社へ】  続いていたと思う】  左、大正期十七丁へ】

写真eimg8761 写真eimg8178 写真eimg8260
【C明治、大正期合流点 【D大正期参道の合流 【E八丁旧参道の分岐
 左、十七丁から  右、現参道を鳥居へ  右、現参道を本山寺へ
 奥、十六丁へ  左、大正期十三丁へ】  進入禁止看板左へ旧道】

写真eimg8665 写真eimg8669 写真eimg8673
【F新、旧参道合流点 【G勧請掛け前の分岐 【H勧請掛け後の合流
 左、現参道の三丁へ  右、現参道を本山寺へ  右、現参道が合流し
 電柱左、旧道八丁へ】  左、旧参道を本山寺へ】  旧道を直進し本山寺へ】

2.【2.渓谷参道】
現在の起点は、高槻市川久保の上落合橋北詰より北1.5qの三ツ辻、水瀬川橋の東詰の道標となり、「林道本山寺線」
と呼ばれているが、当時はこの道が無く、600m程南に西へ分岐する道の跡がある辺りを起点とし、現在の八丁丁石に
続く400m程の短い道があったと想像される。
写真eimg8734 写真eimg8264
【@現渓谷参道の起点とした 【A現参道との合流点、右奥
 左橋を渡り駐車場へ  左端、八丁丁石が建つ
 「林道本山寺線」とある】  中央フェンスは駐車場】

2.【3.本山寺古参道】
起点は、高槻市原1465、旧道牛地蔵から北550m辺り、民家石垣下から東、本山寺へ分岐する三ツ辻。
「神峯山寺北道標」を経由し、尾根筋のやや西を北上し、現参道との合流点は、三丁丁石の北のロータリー
であるが、新名神工事の関係か通行止めになっており、未踏査である。各地点の写真だけ載せておく。
写真eimg8569 写真eimg8616 写真eimg8723
【@本山寺古参道起点とした 【A神峯山寺北道標地点 【B現参道との合流点
 左右、村中の南北の道  右奥、原から通行止め  右奥、原から通行止め
 奥、神峯山寺北、本山寺へ】  左神峯山寺、手前本山寺へ】  左現参道、手前本山寺へ】

3.【丁石全般】
 川久保の毘沙門天鳥居より、本山寺勧請掛け前迄の、概ね大正期参道ほぼ21丁(2.3q)に、「二十丁」と書いた
道標1基と、「十八丁」を除く、丁数のみを書いた丁石、18基が建っている。
出発点は、川久保、府道79号からの分岐点に建つ鳥居としているが、何と、到達点(20丁先)には本堂も無ければ山
門も無く、「一丁」丁石を到達点に見立てた時、「勧請掛け(しめ縄か)」なる境界を示す建造物があるのみである。
これは、「一丁」を起点と勘違いし建てたものか、移設により本堂から離れてしまったもの、かの何れかであろう。
 丁石の建てられた時期であるが、『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、「九丁」の金澤市
兵衛の名前より、同人の紀年のある道標2基の「大正3、4年」と同じであろうとし、『高槻のまちかど遺産』高槻
市立しろあと歴史館発行、平成29年刊では、「大正3年」に建てられたとしている。
 何れにしろ、大正の初期、多分上記に述べた、大正期参道が出来る前(即ち明治期参道)に建設されたものと考え
なければ、丁石の数が合わない。現在の「十七丁」丁石は、建立直後に、大正期参道に移設されたものと考えられ、
同様に、「十八、十九丁」も移設されたであろう。私の考えでは、「十九丁」が諏訪神社の階段下、「十八丁」が
諏訪神社を西に抜けた山腹中に有ったとし、「十七丁」もすぐ上の明治期参道に置かれていたとする。
道筋の変化から、「三丁」も現位置から、10m程度上の明治期参道にあったとする。その他前後の間隔が正しくない
幾つかの丁石も見えるが、近接移設の範囲としたい。
 丁石の外観については、大きさ、体裁、石質等、非常に統一されており、同一時期に作成されたことを裏付けてい
ると思う。ただ、住所の統一性や、字体の見かけなさ等、施主(書き手)が割に自由に書いた印象を受ける。

4.【町名】
 施主の住所と思われる町名から建設年が割り出せないかとし、調べてみたが、結論は出なかった。
西区花園町は明治22年に出来、昭和39(1964)年迄あった。
南区は治22年に出来、大正14年4月区域の一部を浪速区、天王寺区へ分離
南区難波新地1〜6番町は明治6年に再編、明治22年に市町村制、昭和18(1943)年、昭和57(1982)年迄あった。
南区北炭屋町は、明治22年に出来、昭和57(1982)年迄あった。
南区難波元町は、明治33(1900)年大字改編で難波新地6町の他16町として誕生、大正14(1925)年浪速区になる。

5.【丁石一覧】
高槻市本山寺丁石一覧
丁数位置正面方向道の左右住所/施主大きさマップ上距離m
N34.917516 E135.612895  本堂(毘沙門天王) 

0

N34.91527 E135.613378南西香川県多度津港/岡本利作88x南西21.5x21p(頂高4p)

105

N34.914296 E135.613222西大阪市南区難波新地一番丁/武田庄兵衛89x西面21x21.5p(頂高3.5p)

132

N34.913622 E135.613782大阪市松嶌町一丁目/進藤スマ74x21.5x21.5p(頂高3.5p)

92

N34.913805 E135.614973南西大阪市南區北炭屋町/高橋寅蔵80x21x21p(頂高3p)

115

N34.913098 E135.615959北東大阪市南區北炭屋町/高橋満左77x北東21x20.5p(頂高3.5p)

130

N34.91218 E135.616819北東大阪市南區北炭(屋町)/高橋亀治(郎)65x21.5x21.5p(頂高3p)

101

N34.911532 E135.617547大阪市西區松嶌花園(町)/矢倉ヨネ72x21.5x21.5p(頂高3p)

119

N34.910289 E135.617210西大阪市西區松嶌(花園町)/矢倉(藤四郎)55x西面21.5x21p(頂高3p)

133

N34.909301 E135.617141大阪市南区難波新地五番丁/金澤市兵衛85x21.5x21.5p(頂高3p)

153

10N34.908189 E135.616573西大阪市難波元町三丁目/徳谷夘兵衛98x21.5x21.5p(頂高3p)

170

11N34.907418 E135.616478大阪市南区松屋町主/佛具商 佛仁65x東面21.5x19.5p(頂高3p)

60

12N34.906294 E135.617308西大阪市西区松嶌十一丁目/前田豊撞78x21x21p(頂高3p)

190

13N34.905212 E135.617779西大阪南区高津三番丁/石福79x西面21x19p(頂高3p)

100

14N34.90419 E135.61837大阪市西区新町西通三丁目/池田松之助81x21x21p(頂高3p)

160

15N34.903106 E135.618789南西大阪市南区難波新地四番丁/酒井冨蔵97x南西面21.5x21p(頂高3p)

90

16N34.902209 E135.619641南東大阪市南区高津十番丁/安田佐兵衛84x21.5x21.5p(頂高3p)

150

17N34.90163 E135.619513大阪市/芳貴100x21.5x21.5p(頂高4p)

130

19N34.900656 E135.621079三嶌郡清水村大字(真上)/九十三才(女)77x21.5x21.5p(頂高3p)

170

20N34.900587 E135.622334南西左 北山本山寺道/是ヨリ二十丁/大正三年十二月/大阪市南區難波新地五番丁/金澤市兵衛131x東面30x22.5p(頂高7p)

80

60N34.85757 E135.62759西是ヨリ六十□/(左北山本山)寺近道/大正四年□月/大阪市南区難波新地/金澤(市兵衛)71.6x29x29p

6.6q


注)「正面」とは丁数の刻まれている面、「道の左右」は本山寺へ向かって、「大きさ」は基礎部を含まない地表高、
「頂高」は四角推部の高さ。
尚、18丁は不明。

写真eimg8420 写真eimg8392 写真eimg8370 写真eimg8347
【0.本堂】 【1.】 【2.】 【3.】

写真eimg8333 写真eimg8311 写真eimg8295 写真eimg8280
【4.】 【5.】 【6.】 【7.】

写真eimg8266 写真eimg8245 写真eimg8229 写真eimg8213
【8.】 【9.】 【10.】 【11.】

写真eimg8198 写真eimg8182 写真eimg8426 写真eimg8444
【12.】 【13.】 【14.】 【15.】

写真eimg8463 写真eimg8164 写真eimg7992 写真eimg8042
【16.】 【17.】 【19.】 【20.鳥居下道標】

6.【鴻池右七郎の道標】
『高槻まちかどの石造物』高槻市立しろあと歴史館、平成24年刊、に本山寺への道標として二基が残るとし、裏付け
 資料が挙げられている。原本は個人蔵とあり見れないと思うが、その写真等より読み下してみる。

道印石建場所留

一 大石 前嶋船上リ場之所
一 右同 同村横堤
一 右同 野田村之別堤之上
一 大石 樋野川四辻下村之堤之上
一 左同 成合村金龍寺江之別
一 右同 同村土橋之所原村之別
一 右同 同村宮之馬場原村之別
一 左同 同村奥谷川落合之所
一 左同 同村奥坂之上リ口
一 右同 川久保村八幡別
一 右同 同村毛ゝ山谷江之別
一 左同 同村上条と下条船上江之別
一 右同 同村神峰山へ之別
一 左同 同村上条之奥山へ之別
一 右同 廣瀬村海道(湯谷道印石有之所)
一 左同 同村揚谷と川久保村之別

一 大石 芥川村堤大川ノ東詰
一 大石 氷室村海道服部村へ之別
一 右同 郡家村ご本う山之下南
一 同  安満村海道新町より成合村へ之別
一 右同 原村堂之前

 此数貮拾壱本
右悉知如件

  摂州北山
   本山寺
    役者 印
文化七庚午年四月

鴻池右七郎殿

(( )部は『高槻まちかどの石造物』より)
(裏写り防止か、上下二つ折りの紙に書かれている。)

文化七(庚午)年四月1日なら西暦1810年5月3日木曜日となる。
同人の「神峯山寺」への寄進が、文化七年九月1日とするなら、西暦1810年9月29日土曜日となり、こちら
本山寺のほうが、5ヶ月ほど早くなる。
同書で現存するものとし
一番石「前嶋船上リ場之所」(当資料「前島1の道標」)と
十番石「川久保村八幡別」(当資料「川久保の鳥居の西道標」)の二基としている。
が、「一番石」と「十番石」の筆跡は似ておらず、一番石は、上記古文書の9年前、享保元(1801)年の建立である。
 私見であるが、現存候補として、「川久保渓谷の道標」が、川久保村の十一番から十四番のどれかに当たり、
「二十一番石」の「原村堂の前」を「加峯山寺(原村)(開山)堂の上」とかってに代えて「原神峯山寺北の道標」
の「本山寺」が消された石に当たる、等はどうか。
神峯山寺本堂、堂内東長押上小壁に掲げる奉納額も参照下さい。)

写真eimg8497 写真eimg8004 写真eimg8739 写真eimg8625
【一番.前島の道標】 【十番.川久保鳥居西の道標】 【十一番.川久保渓谷の道標】 【二十一番.神峯山寺北の道標】

7.【金澤市兵衛の道標】
上記「鴻池右七郎の道標」を降る事、115年、少し規模は小さいかもしれないが、道標二基と丁石一基を
寄進しているようです。
1.高槻市川久保の鳥居前4/4道標
2.高槻市別所新町にあった道標(最近なくなったか)

写真eimg8042 写真cimg1549
【21.川久保の鳥居前4/4道標】 【22.別所新町にあった道標】

写真eimg6774
【23.高槻中部の道標】
写真eimg6742
【24.高槻南部の道標】
写真eimg6775
【25.本山寺参道地図】

8.【摂津名所図会】
本山寺の絵が同書に載っており、現在の「一丁」丁石があると思われる地点に、「二王門礎」と書かれており、
その北50mと思われる辺りに「惣門」(現中門ではない)が載る。何れも丁石起点には相応しくない。
又、「二王門礎」辺りより東に「京へのミ年道」が書かれ、現在のポンポン山への道が、明治の地図では、
この地点から分岐している様に書かれていることと符合する。
絵図は、国立国会図書館デジタルアーカイブの『攝津名所圖會』. [6]のコマ番号52を参照。
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