60.高槻市川久保の鳥居の西道標

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高槻市川久保 府道79号から西に分岐する参道口の鳥居の西30m、三叉路南部に北を正面に建つ
(現、本山寺参道から、諏訪神社への道の分岐点)
尖頭型角柱 116x北面21x19.5p(頂高6p)
N34.900661 E135.621983


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北面
┌―――――――――――――――――――┐
│(梵字)左本山寺道          │
└―――――――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

南面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘


(南西面の梵字はベイ「毘沙門天」の種子であろうか。)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、40)
(同書に、「本山寺への道筋を示す道標のうち葉間家文書に記されているものはほとんど現存せず、ただこの
 道標が文書に見える「川久保村八幡へ之別」にあったものかとも推測される。」とある。八幡が諏訪神社の
 事なら納得できるが、同社の祭神は武御名方神とあった。)
(同書に、「…形態も神峯山寺の道標「西真上2の道標」「浦堂本町の道標」「原1567の道標」と類似
 しているが、道標の位置方向が明らかにおかしい。以前は道をへだてた現在位置の反対側の辻にあった。」
 とある。〔注1.参照〕
 明治の地図で見ると、この三叉路から北諏訪神社に登り、神社を西に進む道が参道であったようで、現在は
 神社のお堂で遮られており進めないが、いつ頃今の道に付け換わったのか分らず、道標設置時期との関係が
 掴めていない。明治期であるとすれば、「左」が「北」を指すべきだが、西神峯山寺の参道から、本山寺へ
 の参道が出来た後なら、「西」を指すことは問題なく、同書の記述が正しいであろう。
 しかし、明治期からあり、神峯山寺方面からの人の為に設置されたとなれば、今の位置で西面するだけで正
 しくなるのである。現在、明治44年発行地図には西からの参道は無く、大正11年測図の地図には西から
 の参道が書かれている、現在、その道も使われておらず、更に大きく西に迂回する道が参道となっている。)
〔注1.
 『高槻まちかどの石造物』高槻市立しろあと歴史館、平成24年刊、では「神峯山寺の道標と同様、赤松由永こと
 鴻池右七郎が寄進したことがわかり、前島から本山寺までの間に21基の道標を立てました。」としており、
 「本山寺道標石建場所留」の写真と読み下し文を載せている。〕
本山寺丁石一覧も参照下さい。)
(周辺には、
 「鳥居前1/4道標」
 「鳥居前2/4道標」
 「鳥居前3/4道標」
 「鳥居前4/4道標」
 「上落合橋北詰道標」
 がある。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を西に望む
 奥30m廻り込み鳥居へ  右(西)本山寺へ  奥(西)本山寺へ
 左(北)諏訪神社へ】  左、鳥居を越え府道へ】  背後30mに鳥居】

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【4.道標を南東に望む 【5.道標北面上部 【6.道標前より北を望む
 現在は北面していて  苔の跡が付くが  奥、民家の間を抜け
 「左」は「東」を指す】  石は新しく感じる】  階段を登り諏訪神社】

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【7.高槻中部の道標】
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【8.高槻南部の道標】

(四道標比較、同一施主か)
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【9.当道標は「本山寺」】 【10.西真上2道標】 【11.浦堂本町道標】 【12.原1567道標】
 116x北面21x19.5p  97x南面20.5x21p  92x南面21x20p  86x南面20.5x18p
 (頂高6p)  (頂高3p)  (頂高4p)  (頂高3p)

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【13.本山寺参道地図】
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