44.高槻市西真上2の道標

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西真上2丁目24−15 真如寺川の西真上橋西詰の北西部に東を正面に建つ
(此処だけを見ると四辻の北西部となるが、少し広く見ると川の両岸に道が付き、橋が二つあり、「井」辻である)
尖頭型角柱 97x南面20.5x21p(頂高3p)下から13pで折れている。
N34.858577 E135.602111


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東面
┌―――――――――――――――――――┐
│(梵字)右神峰山寺道         │
└―――――――――――――――――――┘

南面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘


(南西面の梵字はベイ「毘沙門天」の種子であろうか。)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、24)
(同書には、「芥川町4地蔵堂の道標」の次の道標としているが、横にある「高槻まちかど遺産」では、「享和元年
 (1801)に大坂の商人・赤松由永が、淀川の三島江浜から神峯山寺までの間に建立した16基のうちの五番石です。」
 と明記されているが出典は不明。
 『文化財をめぐる 高槻まちかど遺産』高槻市しろあと歴史館編集、平成29年刊、の「芥川町4道標」の項に、寄進
 目録の古文書の写真が載っているが、それによると、都合十六本とあるものの、立石の詳細は書かれていないように
 見える。
  確かに、「三島江2の道標」の二里半、「芥川町4地蔵堂の道標」の四十丁は、「赤松由永」とあり、経路として、
 この道標を過ぎ、次に「浦堂本町の道標」、更に「原立石の大正の道標」と参詣道とすることには問題は無く、当地
 は、「芥川町4」からは9.5丁、次の「浦堂本町の道標」へは8丁の距離である。
 只、この道標と、次の「浦堂本町の道標」の筆跡や「峰」の字等は明らかに違い、同一施主とは出来ないのでは無い
 か。
 出典元と思われる「奉納額」を見ると、「修理」も行ったようで、全て赤松が建てたものとは限らないと思う。)
(明治の地図で見ると当地点には辻が無く、20m南に、大井出橋から続く旧道らしき辻がある。
N34.858375 E135.602180
 辺りとなり、この辻の北西部に建っていたものと想像される。辻の形状にもよるが、南面していたとしたい。)
(上記、「神峯山寺本堂、堂内東長押上小壁に掲げる奉納額」は、こちらを参照下さい。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を南西に望む
 奥(北)神峯山寺へ  左端に当道標  右(西)大蔵司へ
 左、名神を越え大蔵司】  奥(東)真上へ】  左、真上へ】

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【4.道標の東面拡大 【5.参考「浦堂本町の道標」 【6.右横の「まちかど遺産」
 現在は東面しており  明らかに筆跡が異る  「享和元年(1801)」
 右は北を示す】  「峯、峰」混同は多い】  施主「赤松由永」とする】

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【7.高槻中部の道標】
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【8.高槻南部の道標】
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