58.高槻市川久保の鳥居前3/4道標

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高槻市川久保 府道79号から西に分岐する参道口の鳥居前の北部に南を正面に建つ
(鳥居北側3基の内の1基、中央に建つ)
山型板碑 111x南東面27.5x11p(頂高4p)
N34.900572 E135.622332


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南面(厳密には南南西か)
┌―――――――――――――――――――┐
│ 根本山               │
│左    毘沙門天道         │
│ 神峰山寺      十丁      │
└―――――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘


(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、35)
(同書には、「比較的年代の新しもののようであり、」としているが根拠は挙げていない。同じ位置に有る三基の内
 石の摩耗度からすれば、2番目に古く、3番目が「大正」であることが理由かと思う。因みに1番古そうな石にも
 紀年はないが江戸後期であろう。)
(現在地から、現在の林道で神峰山寺に行くと山門迄でさえ2.2q(20丁)もあり、十丁とは相いれない。これをどう
 考えるかであるが、現在の林道が迂回しているとし、明治の地図で当時の距離を想定してみたところ、若干短くな
 るが、2q(18丁)となり、これも無理がある。山門経由でなく、本堂までの直線距離でさえ1.2q(11丁)となり、
 「十丁」を信じる限り、移設されたことになる。背(北)面下部の大きな欠損も移設を裏付けるかもしれない。
  神峯山寺の丁石でなく道標として、現在地方面へ十丁程度の辻を探すと、本山寺への分岐点が、1ヶ所だけあり、
N34.899828 E135.614915
 辺りの山中となるが、この辻が出来たのはいつの事か。林道規定成るものが昭和30年に出されたようでそれ以前に
 此の辻があったか、明治の地図には北、本山寺への道がなく、林道規定が出された後の林道建設時に、出来た辻の
 様に思える。その時どこかから移設して、且つ「十丁」と追刻したと考えたい。
  ではその前は何処にあったのか、明治の地図を見ると、その南400mに、行者山の東を廻り込みながら登って来て
 この道に合流する辻があり、此処ならば道標を置くに相応しい。
N34.896640 E135.613313
 辺りとなる。この東回りの道は、現在無くなってしまったようだが、「原京坂越えからの道標」に続いていた。
  依って、この道標は2回(以上)の移設と追刻を経て、現在地にあるとしたい。)
(周辺には、
 「鳥居前1/4道標」
 「鳥居前2/4道標」
 「鳥居前4/4道標」
 「鳥居の西の道標」
 「上落合橋北詰道標」
 がある。)

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【1.鳥居を西に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を北に望む
 左に1基、右3基  左鳥居と3基の道標  僅か日の当たる当道標
 左山裾裏に1基】  中央が当道標】  府道から正面に見える】

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【4.道標の南東面拡大 【5.道標南東面上部 【6.道標南東面下部
 右の解説板は  「根本山 神峰山寺」  「十丁」は元から
 右の道標のもの】  「峯、峰」混同は多い】  彫られていたものか】

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【7.高槻中部の道標】
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【8.高槻南部の道標】

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【9.神峯山寺参道地図】
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