57.高槻市川久保の鳥居前2/4道標

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高槻市川久保 府道79号から西に分岐する参道口の鳥居前の北部に南を正面に建つ
(鳥居北側3基の内の1基、最も東に建つ)
尖頭型角柱 82x南面21x19.5p(頂高3p)
N34.900565 E135.622344


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南面
┌―――――――――――――――――――┐
│右 やなぎ谷             │
└―――――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――――┐
│大坂   道意            │
│    釋              │
│ 月参講 妙意            │
└―――――――――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――――――┐
│俗名 天満北とん多丁         │
│ 小分銅 名田屋□治郎        │
└―――――――――――――――――――┘
(「多」は変体仮名「た」とした)


(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、84)
(同書には、「「安満北の町18の道標」、当道標、「川久保の上落合橋北詰道標」は、いずれも月参講により建てら
 れたものであり、…」としているが同一の講であるかどうかは言及していない。
 安満のものは「寺町観音講」、当道標は「天満北富田町月参講」、上落合橋は「天満市場月参講」とあり、何れも大
 坂市中ではあるものの、同一講ではないと思うが、案内面の文字は酷似しており、同じ人の手になるものと思う。)
(西面、町名「北とん多丁」を「北トン田丁」と表記する地図があり、天満宮の北西、堀川を越えて、現在の北区西天
 満5丁目辺りと同定できる。
  余談であるが、大阪の町名は「マチ」と読むといわれるが、古絵図等では「丁」と書かれており、ここの「丁」も、
 町名を示すものと思われ、数字の丁目が書かれたものでは無いと思う。
  人名の□は「窯」又は「窓」のくずし字の様に見えるが、どうか。)
(参考、「北トン田丁」の地図は国立国会図書館デジタルアーカイブ「大阪絵図」播磨屋九兵衛、寛政1(1789)年
 参照可能。すぐ南に「南トンタ丁」もあり、「とんだ」と読んだものか。)
(周辺には、
 「鳥居前1/4道標」
 「鳥居前3/4道標」
 「鳥居前4/4道標」
 「鳥居の西の道標」
 「上落合橋北詰道標」
 がある。)

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【1.鳥居を西に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を北西に望む
 奥、本山寺神峯山寺  左鳥居と3基の道標  手前右端が当道標
 参道、右は大沢へ】  右端が当道標】  府道から正面に見える】

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【4.道標の南面拡大 【5.道標西面下部 【6.道標西横の
 府道に正対し  「満北とん多丁」  「まちかど遺産」
 右は北を示す】  「名田屋窯治郎」か】  の解説板】

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【7.高槻中部の道標】
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【8.高槻南部の道標】

(三道標比較)
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【9.安満北の町の道標】 【10.当道標、鳥居前2/4道標】 【11.上落合橋北詰道標、合成写真】
 91x西面21x20.5p(頂高4p)  82x南面21x19.5p(頂高3p)  85x北西面22x21p(頂高5p)
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