55.高槻市安満北の町18の道標

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高槻市安満北の町18 府道125号と79号の交差点三叉路の南東部歩道中に北を正面に建つ
尖頭型角柱 91x南面20.5x21p(頂高4p)
N34.864467 E135.630311


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北面
┌―――――――――――――――――――┐
│右 そうじ寺             │
└―――――――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――――――┐
│左 やなぎ谷             │
└―――――――――――――――――――┘

南面
┌―――――――――――――――――――┐
│  大坂月参講            │
└―――――――――――――――――――┘
(「参」の下は「水」に、刻す)

東面
┌―――――――――――――――――――┐
│       油屋くら        │
│施主 寺町摂津国屋平八        │
│         觀音構中      │
└―――――――――――――――――――┘
(「摂津」は疑問が残る、屋号か。「構」は「講」か)



(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、83。)
(同書に「そうじ寺」と「やなぎ谷」を結びつけるものは、ともに観音霊場であったからであろう。」としているが、
 何故この場所に設置されているかであるが、施主の観音講と大坂月参講の関係も不明であるが、何れにしても、大坂
 から出発したとして、位置的に、総持寺、柳谷観音の順であろう、私の感覚では、総持寺から後、氷室で西国街道に
 出るか、或いは高槻城下の東を廻り西国街道に出るかし、そのまま西国街道を東に進み、島本町から尺代を経て柳谷
 と想像する。この時この地点は通過しないのである。
 それとも、別所新町から西国街道と分かれ、安満、成合、川久保、大沢、柳谷と距離は長くなりそうだが、現府道79
 号に当たる道が一般的であったのであろうか。もし移設されていないのであれば、後者と考えられる。)
(東面、施主の下に小さく「寺町」とあり、平八さんの住所と思われる。天保八年出版の「浪華書林播磨屋九兵衛の摂
 州大阪全図」に「寺丁橋」が見えその通りの東に「東寺丁」があり、現在の北区の寺町通りと思われる。
 その下「摂津国屋」としたが「摂」の読み下しが間違っているかもしれない。みかんの「紀伊国屋文左衛門」等と同
 じかとした。)
(又、同書にあるよく似た道標三基は、次のもので、各々参照して下さい。
 「当道標、安満北の町」、「川久保の鳥居前2/4道標」「川久保の上落合橋北詰道標」

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【1.道標を南西に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を北東に望む
 奥(南西)別所へ  左奥(北西)成合へ  高架は名神高速
 左下、当道標】  右、桧尾川橋へ】  右、府道125旧西国街道へ】

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【4.道標より西を望む 【5.道標南面の拡大 【6.道標東面下部
 池向に墓地が見え  「大坂月参講」  「油屋くら」
 その後ろは中学校】  「参」とした】  「…摂津国屋平八」とした】

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【7.高槻中部の道標】
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【8.高槻南部の道標】

(三道標比較)
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【9.当道標、安満北の町】 【10.川久保鳥居前2/4道標】 【11.上落合橋北詰道標、合成写真】
 91x西面21x20.5p(頂高4p)  82x南面21x19.5p(頂高3p)  85x北西面22x21p(頂高5p)
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