63.高槻市川久保渓谷の道標

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高槻市川久保 上落合橋北詰より北1.5qの三ツ辻、水瀬川橋の東詰南部に東を正面に建つ
(西、本山寺駐車場への本山寺林道起点か)
尖頭型角柱 78x21x21p(頂高4p)(南へ傾いている)
N34.911326 E135.619375


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東面
┌―――――――――――――――――――┐
│(梵字)左本山寺道          │
└―――――――――――――――――――┘
(「道」はほぼ埋まる)

北面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

南面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘


(南西面の梵字はベイ「毘沙門天」の種子であろうか。)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊には、記載なし。)
(同書に載る、「川久保の鳥居の西道標」の解説に「本山寺への道筋を示す道標のうち葉間家文書に記されて
 いるものはほとんど現存せず、ただこの道標が文書に見える「川久保村八幡へ之別」にあったものかとも推測
 される。」とし、「…形態も神峯山寺の道標「西真上2の道標」「浦堂本町の道標」「原1567の道標」
 と類似」として神峯山寺への道標を挙げているが、当道標は「本山寺」でありその点ではより以上に似ている。
 又、「神峯山寺北の道標」の消されたような、南面とも似ている。)
(明治の地図には、この地点から西への道は描かれておらず、昭和52(1977)年改測地図に見えるようであり、
 明治以前から建っていたとするなら、「右」がどちらを指したものであろうか、現状で額面通り受け取ると「北」
 を示し、ポンポン山方向となり合わない。移設が無かったものであれば、現東面が北を向いており、ポンポン山
 から下ってきた人に、右(西)をしめしたものと解釈できるが、地形的に谷筋を登る道を付けるには相応しいと
 思えず、移設されたものではないかと思う。
 現在地から600m程南に此処と同様西へ分岐する道の跡が有り、九丁丁石の北辺りに出たようで明治の地図にも
 載っており、元位置の候補と成るのではないか。)
本山寺丁石一覧も参照下さい。)

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【1.道標を北西に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を東に望む
 左橋を渡り駐車場へ  右、本山寺林道へ  右(南)川久保へ
 右奥、ポンポン山へ】  奥(南)川久保へ】  背後、本山寺へ】

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【4.道標を西に望む 【5.道標東面拡大 【6.道標東面下部
 南に大きく傾く  書体には少し  「寺」の下は埋れるが
 すぐ後ろは川】  癖が感じられる】  「道」と判断できる】

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【7.本山寺参道地図】

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【8.高槻中部の道標】
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【9.高槻南部の道標】

(三道標比較、「山」はよく似る)
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【10.当川久保渓谷道標】 【11.川久保鳥居西道標】 【12.神峯山寺北の道標】
 78x21x21p(頂高4p)  116x北面21x19.5p(頂高6p)  98x21x21p(頂高6p)
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