62.高槻市塚原3の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
高槻市塚原3丁目 安威村から安威川を東に渡り塚原集落の中心部、
南の太田からの道との四辻の東40mの四辻の北東部に南を正面に建つ
(すぐ東は八幡神社に突き当たる)
尖頭型角柱 141x南面39x35p(頂高4p)(台石38x71x71p)
N34.85228 E135.571094


写真eimg7412

写真eimg7413

写真eimg7414

写真eimg7415

南面
┌―――――――――――――――――――┐
│南無妙法蓮華経            │
└―――――――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――――――┐
│左 従加ハらみち           │
└―――――――――――――――――――┘
(「従加」は変体仮名「つか」、「塚原道」であろう)

北面
┌―――――――――――――――――――┐
│南無妙法蓮華経            │
└―――――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――――┐
│  法入霊              │
└―――――――――――――――――――┘


(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、70)
(同書に、「この道標はIの道標と酷似している。経王寺の文字は刻まれていないが、刻字の内容と立っている位置か
 らすれば経王寺への道標であろう。」としている。
 Iとは「登美の里町22の道標」のことで、活字にすると「酷似」であるが、全体を見ると別物であり、その道標か
 らの道筋に立っている訳でもなく、宗旨の題目を除けば、関連性は見えない。
 設置位置が変わっていないとしたなら、明治の地図にこの辻が載っておらず、当地が「塚原」であることから、「塚
 原道」を経王寺への案内としても問題はないと思うが、集落から離れた位置に置かれていた場合は、やはり集落への
 案内とすべきであろう。移設が無かったとすれば、この地は塚原の中とはみなさなかったものか。
  大正11年測図の地図では、当地の東の八幡神社西側を北に抜ける道が出来ており、その道から、塚原の経王寺へ
 の案内であったかも知れない。
 そうすると、南10m辺りからの移設とも考えられるし、更に40m南西の四辻の中央に木が残る辺りも何か気になる辻
 である。
 ただ最近だけを見れば、上記書に載る写真(1983年)を見る限り、現在(2018年)とでは、場所は変わっていない。)

写真eimg7409 写真eimg7410 写真eimg7411
【1.道標を北東に望む 【2.道標を西に望む 【3.道標を南東に望む
 奥(北)大谷池へ  右(北)経王寺へ  奥(南東)八幡宮
 右、すぐに八幡宮】  奥、東安威へ】  手前、経王寺へ】

写真eimg7443 写真eimg7418
【4.道標を北に望む 【5.道標西面拡大
 奥(北)石垣の  「左従加ハらみち」
 上に、経王寺】  「左塚原道」であろう】

写真eimg6774
【7.高槻中部の道標】
写真eimg6742
【8.高槻南部の道標】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ