94.箕面市下止々呂美の道標

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箕面市下止々呂美1007 国道423号の東、余野川東岸、箕面有料道路高架下の東擁壁前に、西を正面に建つ
角柱 104x31.5x31.5p(台石31x西面51.5x50.5p)
N34.877133 E135.456999


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西面                 台石部分
                   ┌―――――┐
┌―――――――――――――――――┐│世 下記 │
│右 池田 道           ││話    │
└―――――――――――――――――┘│人    │
                   └―――――┘

南面
┌―――――――――――――――――┐
│為道供養之            │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――┐
│明治十三年            │
│   第七月建之         │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘


(明治十三年は西暦1880年。)
(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では、77)
(同書に「新道開設着工に際し工事の安全と完成を願っての道供養と、竣工までの池田への道を通行者に
 案内するための道標を兼ねた 碑を建てたものと考えられる。」としているが、「工事お知らせ」のよ
 うなものは考えにくく、完工後であろうと思う。
 又、同書には「私邸内に移転されている」となっており、現2018年時点では、そこからの移設であろう。
 元の位置は明治の地図で、北150m辺り、川東沿いの旧国道から山側に分かれる道(旧余野道)がある
 三ツ辻
N34.878086 E135.458011
 辺りでは無いかと想像する。
 当然、「右池田道」は、川沿いの道を指すものと考え、現西面が、北面して建っていたとしたい。
  一方、台石部分の三方に書かれた、「世話人」が現状全て見える面に置かれており、未記入の面が東
 面と成っており、これが元の状態であるとするなら、三ツ辻の東部に設置されていた思われ、上部の未
 記入面と台石の未記入面が一致し、三ツ辻の山側に建っていたとしたい。今回の移設に際して、行先の
 不整合(同書の、旧余野道を池田道と解釈させる)を解消する為、道標部のみ回転させられて、今の状
 態にあるとしたい。)
(台石部分は、「世話人」を上部に横書きし、
 (西面)
  世話人 下止々呂美村中、吉田治右ヱ門、嵩場政七、森嶋久平
  上止々呂美村中、清水之新左ヱ門、□□兵右ヱ門、西□□右ヱ門、中西治左ヱ門
 (南面)
  世話人 余野村中、□庄四郎太良、横田宗平、大栗彦兵衛
  切畑村中、室木十左ヱ門、□谷源右ヱ門、中谷房□也、
  野間口村中、木田重兵衛
 (北面)
  世話人 川尻村中、岡□善ヱ門、太田□兵衛、□□徳兵衛、□□半治郎
  木代村中、高橋□□、□□直治、前□忠治、門□蔵
 (東面)
  (なし)
 のように、「村名」に続き「人名」が列記されている。
 沿線の七村が、こぞって建てた印象を受け、その期待感は新道が建設、或いは改修された時に一致する
 のではないかと思う。)
(南面「道供養」の意味は良く知らないが、同じ道筋(余野道)の「26.池田市伏尾町14の東山中の道標」
 の南側に、道供養碑(明和六年(1769年))があり、距離の近さもあり影響を受けたか、この工事でも
 犠牲者が出た為であろうか。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標前より南を望む
 上は箕面有料道路  左、旧余野道伏尾へ  右手は余野川
 左奥(北)下止々呂美へ】  右、国道、インターへ】  上は新名神、背後に道標】

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【4.道標を北東に望む 【5.道標東面上部 【6.道標東面中部
 「右池田道」は東、  右側「明治十」  右側「三年」
 南、何れを示すのか】  中央は良く見えない】  中央「月」が長く見える】

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【7.台石西面拡大
 「世話人」は横書き
 沿線の村中の施主】

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【8.豊能町の道標】

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【9.箕面市の道標】
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