12.島本町山崎椎尾神社の道標2/2(二基の内北側)

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三島郡島本町山崎5丁目 椎尾神社拝殿下広場の東側、石垣前に西を正面に建つ、二基中の北側
(南に、もう一基が建つ)
尖頭形角柱 77x西面21.5x14p(頂高2p)
N34.894723 E135.673878


写真fimg1355

写真fimg1356

写真fimg1357

写真fimg1360

西面
┌――――――――――――――――――┐
│  たからてら 三町        │
│右                 │
│  てん王   九町        │
└――――――――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(『史跡をたずねて』島本町教育委員会発行、平成18年刊では、21)
(「たからてら」は、前述の道標1/2を参照下さい。又、「てん王」は街道名かも知れないとしたが、この書き方を
 見る限り「天王社」と思われる。Wikiに「明治10年6月、山崎天王社が式内、自玉手祭来酒解神社であるとされ、
 改称した」とあり、現「酒解神社」と「宝積寺」が直線でも6丁あり、一本の道であるとすると、9丁ではたどり着
 けない。
 『史跡をたずねて』では、大阪水上隣保館の辺りとしている様で、明治44年発行の地図で四辻が確認でき、
N34.894525 E135.675497
 辺りであろうと思われる。
 この地点を元の位置候補とした場合、この四辻を北に採り、90m地点で東に分岐し「宝寺」へ四丁弱の道らしきもの
 が有り、分岐せず、北尾根筋に道を採ると9丁強で「酒解神社」に出る道が見え、この地点を元位置としても良いで
 あろう。
 尚、明治24年地図では、この四辻を東に採ると南の西国街道に出ず、ほぼ東の「宝寺」へ3丁で行き着く様に描かれ
 ている。
 何れが正しいかは分からないが、24年地図では、道標の案内と矛盾が出るが距離はこちらの方がピッタリ一致する。
  何れにせよこの四辻なら、現西面が東面して建っていたいたものと思われるが、「西 たにてら」の案内も欲しく
 なる。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を南東に望む
 左枠外に拝殿(本堂跡)  右奥参道を鳥居へ  手前が当道標
 奥鳥居は五八郎稲荷】  狛犬左に当道標】  奥が南側の道標】

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【4.道標南面の拡大 【5.道標西面を上部から 【6.隣保館の東から北を望む
 「右、た、て、九」に付く  尖頭型角柱としたが  宝積寺への道が正面の
 「、」は疵であろう】  尖った感じはしない】  山を横切っていたか?】

写真eimg6776
【7.島本町の道標】
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