16.島本町尺代の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
三島郡島本町尺代384 村中の東西の道、釈恩寺跡参道登り口、階段左に南を正面に建つ
蒲鉾型角柱 88x南面33x18p(頂高3p)
N34.89789 E135.653749


写真fimg1426

写真fimg1427

写真fimg1428

写真fimg1816

南面
┌――――――――――――――――――┐
│ 柳谷同木同作従(是)南壱町尺代村 │
│本尊十一面観(世音)菩薩      │
│      (東光)山釋恩禅寺   │
└――――――――――――――――――┘
(( )部は『史跡をたずねて』より)

東面
┌――――――――――――――――――┐
│        攝陽船場塩町    │
│文政六癸未歳九月十七日       │
│       施主 伊勢屋甚作建之 │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――┐
│   當山六世道苗(代)      │
└――――――――――――――――――┘
(( )部は『史跡をたずねて』より)

北面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(文政六(癸未)年九月十七日は西暦1823年10月20日月曜日である。)
(南面に「従是南壱町」とあるので道標扱いとした。)
(『史跡をたずねて』島本町教育委員会発行、平成18年刊では、102)
(同書に「「従是南壱町」とあることから、方位に問題はあるが、もとは尺代橋詰に建っていたのではないか」とある
 が、方位は右下部分が残るだけで読み取りにくいが、「南」であるならこれは素直に南としたい。
  現在は尺代の村中にあり、釋恩寺跡への階段下に置かれている為、寺跡への案内役となっているる。文面通り解釈
 すると、元山門前にあって、南の村中から登って来た時に目にしたものであれば、「南壱町尺代村」に間違いはなく
 なり、察するに、寺標に近いもので有ったと想像する。寺が解体された時に、現在地に移設されたものかと思う。前
 書に「…本堂は解体され、十一面観音や各仏像は平成十五年に霊松寺に移され…」とあるので移設の確証が取れるか
 も知れない。
  尚、道標の有る階段下から現在の寺跡地とされる平坦地までは70m程であり、「釈恩寺跡の道標」のある祠まで
 は90m程度である。)
(東面の「攝陽」は摂州の事とし、大坂船場塩町は今の長堀通の一本北側の通りで、中央区南船場1丁目辺りと思う。)

写真fimg1438 写真fimg1436 写真fimg1425
【1.道標を西に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を北に望む
 右階段を登り寺跡へ  左階段を登り寺跡へ  階段左側に当道標
 背後(東)尺代橋へ】  奥(東)尺代橋へ】  寺跡は突当民家を左へ】

写真fimg1429 写真fimg1430 写真fimg1818
【4.道標南面上部拡大 【5.道標南面下部拡大 【6.道標南面下右部
 上部に剥落は無いが  画面中央部はひどいが  「(是)南壱町尺代」
 「観」から読み難い】  最下部は読み取れる】  剥離部考慮し「南」か】

写真fimg1432 写真fimg1433 写真fimg1434
【7.道標東面上部拡大 【8.道標東面下部拡大 【9.道標西面拡大
 「文政六癸…」  伊勢屋を名のる者  南面剥落の様子が
 と読み取れる】  は多かったらしい】  良くわかる】

写真eimg6776
【10.島本町の道標】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ