55.能勢町上田尻地蔵橋の道標

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能勢町上田尻362 府道106号上田尻集会所南の四辻北東部溝脇に南西を正面に建つ
(西に種子板碑、東に石灯籠が建ち、当道標は中央)
自然石 50x64x30p
N34.966198 E135.444278


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南西面
┌――――――――――――――――――┐
│右 妙見山             │
│      道           │
│左 京亀山             │
└――――――――――――――――――┘

南東面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北東面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北西面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(大正三年は西暦1914年となる。)
(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では55)
(同書には、「二ノ院の地蔵橋の三差路に、石灯炉や大きな板碑と一緒にある道標で、「右妙見山道」は地
 蔵橋を渡り、石原から仏坂越えに地黄へ出て、妙見山に通ずる道…。固い輝緑ヒン岩でできている…」と
 ある。
 まるで栗の実の様な可愛い形をした自然石を用いており、表面は研磨された如く光沢がある。東横の石燈
 籠の竿石も同様の光沢がある石を用いており、これには紀年があり、「嘉永六癸丑三月建之」となってお
 り参考と出来るか。)
(明治の地図で見ると、当地は吉野−下田尻道(能勢街道支線)にあり妙見参りだけを見ると、北の和田方
 面、北西の逢坂峠(山内の地蔵道標参照)からの人はここを通ることがない為、南西からの参詣人だけを
 対象とすればよく、設置向きや横の灯籠など元々の状態に近いであろう(府道の拡幅等の影響はある)。
 尚、東の石原で仏坂峠へ分岐の辻には道標等がなく直進すると倉垣に出て遠回りになる。)
(西隣の四尊の種子だけを刻んだ板碑の解説には「南北朝時代」とあり、建立年の参考にはならないが、碑
 石等を立てるには相応しい場所であったと思われれ、「左京亀山」は吉野峠を越え丹波亀山(現亀岡)へ
 進む道(現府道106沿い、明治期の能勢街道)を示し、「右妙見山」は石原の村中から南東へ仏坂峠を越
 え地黄に到る分岐点でもあり、道標も必要な辻であったのであろう。)
(江戸後期の建設とする資料があり、その根拠は判らないものの、東隣の石質のよく似た石燈籠竿部に有る
 「嘉永六癸丑三月建之」と同じとするなら、西暦1853年4月となり、「ペリー来航」の三か月前とな
 るようである。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を南西に望む 【3.道標を東に望む
 奥(北東)吉野へ  右奥、下田尻へ  小さい欄干が地蔵橋
 右、石原から地黄へ】  右碑後ろに当道標】  奥、石原から地黄へ】

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【4.道標を北東に望む 【5.道標南西面拡大 【6.石燈籠と道標を西に望む
 左、四梵字の板碑  道端にある為か  石質がよく似た竿部に
 右、妙見山石燈籠】  結構傷が目立つ】  「嘉永六癸丑三月建之」】

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【7.能勢町西部の道標】 【8.能勢町東部の道標】
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