54.能勢町山内の地蔵道標

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能勢町山内34 府道732号清正公前交差点を北西に720mの四辻(山内会所前バス停)を南へ100mの野中の
四辻、北西部に南を正面に建つ
山型板碑(廂付き) 79x26x18p(頂高11p)、
廂部3p前に出る、廂直下の幅23p、頭頂稜線10p後で7p下降
(地蔵龕部22x18x2p、像部16x10p)
N34.974373 E135.446276


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南面(やや東を向く)
┌――――――――――――――――――┐
│     右 妙見山        │
│(坐像) 南無妙法蓮華経      │
│     左 京亀山        │
└――――――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では54)
(同書には、「今は100mばかり東に移転され、逆方向の東を向いて立っている。この道標は上部に弥陀座
 像を刻む中世の圭頭板碑で、身部の下部に題目と道標銘を加刻したものである。その時期は江戸後期と思
 われる。」とある。
 元は100m西の三ツ辻に立っていたいたとすれば、現南面は西面していたと思われ、右は川沿いの南東の
 道で石原から仏坂峠を越え地黄への道を示すと思うが、左は真直ぐ東へ進み現道標を通り清正公前辻へ出
 る道を示すであろう。この「左」を「すぐ」としていないのは、西よりやや北に面していた為ではないか。
 こう考えると辻の南東部に位置したと思われる。
  尚、元の位置とされる地点で「右妙見山」への道は明治28年、大正15年の両地図に記載なく、今は道路
 の痕跡さえ感じられない小川の土手の様であり、元位置に相応しいかは疑問であり、現地点の方が三ツ辻
 として描かれており設置位置は動いているが、元の位置かもしれない。)
(前書では「身部の下部に題目と道標銘を加刻したものである。」としているが、理由は明確にされてい
 ない。私見としては、元々道標としての形態を採っていると思われ、追刻ではない様に思う。
 よく似た形態の道標として、
 1.高槻市田能の供養塔道標
 やや似た形状のものとして、
 2.瑞ケ丘道標伊丹市立博物館収蔵
 廂を持つだけのものなら
 3.天道道標(吹田市博物館所蔵)
 4.川西市西多田平井田筋の道標
 等を挙げておく。
  特に1.とはよく似ており、これが宝徳三年三月(グレゴリオ暦1451年)の銘を持つため、これに近
 いとするなら、相当に古いものと言えるのであるが、どうか。専門家の調査を待ちたい。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を東に望む
 奥(西)逢坂峠へ  奥、府道732号へ  奥、清正公前交差点へ
 左、上田尻へ】  右、清正公前交差点へ】  背後(西)逢坂峠へ】

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【4.道標を北西に望む 【5.道標南面下部拡大 【6.道標上部を西に望む
 左奥石碑の辺りが  地蔵と碑面の割合  廂の出っ張りと
 元位置の三ツ辻か】  から追刻は無いか】  背後の丸みが分る】

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【7.能勢町西部の道標】 【8.能勢町東部の道標】

よく似た道標との比較
写真fimg2302 写真eimg9040
【9.能勢町山内の地蔵道標 【10.高槻市田能の供養塔道標
 上部に地蔵像  上部は寺名と蓮台
 下部に題目と案内】  下部は願文と人名】

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【11.元位置を東に望む
 奥、二本目電柱左に当道標
 右妙見の道は小川の土手か】
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