40.高槻市田能の供養塔道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 二基の内北側(丁石でなく道標とした)

 2023/5/27 場所説明に誤り、訂正
高槻市森脇田能 府道6から733号に東折れ500m最初のピークの三ツ辻北東部、路肩に北を正面に建つ
山型板碑 108x31x20p(頂高15p)(龕部40x23.5x-1p)(蓮華座12x8x1p)(廂部5x31x龕面より6p)
N34.959861 E135.596298


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北面(厳密には北北西に近い)
┌―――――――――――――――――――――――――――――┐
│                            @│
│ 奉讀誦大乗妙典一千部 右志趣者為現 翔瑞 宗芳     │
│                      満祐 宝徳三 │
│            世安穏後生  慶A 永隆     │
│三十三所穴太寺九十町    一結衆等 恵B 妙C 明心  │
│            善處乃至法            │
│ 為彼供養石佛造立者也 界平等利益也 宗柏 明永     │
│                         三月日 │
│                   妙祐 宗珠    白│
└―――――――――――――――――――――――――――――┘
(上部山型部に、梵字が彫られており
 右が「ア、大日如来」、
 中央「タラーク、虚空蔵菩薩」、
 左が「ア」の鏡字)
(『高槻まちかどの石造物』は、@敬、A?、B珍、C喜、とあるが
 @界、A捻、搶、騫、B珠、C善、とも見える。)

西面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

南面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘


(宝徳三(壬申)年三月1日なら、グレゴリオ暦1451年4月11日金曜日となる。ユリウス暦では4月2日。)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、72
 『高槻まちかどの石造物』高槻市立しろあと歴史館発行、平成24年刊では、54として載る。)
(前書では、「供養塔をかねた穴太寺の町石である。…千回読みあげたのを記念して、下部に刻まれている10数名のも
 のによって建てられたものであろう。」としている。
 明治の地図を基に、現在の地図でトレースすると、平面距離で9.9q程度になり、90丁(9.8q)にほぼ近く、元の位
 置から大きく移動されていないとすれば、元は、東に面していたものと思われる。2018年現在では、地中に埋設せず
 立掛けてあるだけの様に見え、近接移設に違いないと思われる。
 前書は「市内在銘道標町石としては一番ふるいもの」とし、兵庫県最古の道標とされる「13.宝塚市安倉南4姥ヶ
 茶屋の道標」の寛文八年二月(1668年3月)よりも、200年以上も古く、もう少し丁寧に設置して欲しいものである。)
(形状を少し述べてみると、山型板碑としたが、背面は船底の様に左右に丸くなっており、先端に向けても丸く削り込
 まれており舟底型とすべきかも知れない。又正面は、底辺から上に向け、傾斜を付けて堀込み、山型部分にかかると
 6pの廂(ひさし)を造り付けており、猶また、その廂は左右に緩く円弧を描き、中央部で約1p前に出ている。
 全体の印象は、太い編針を扁平にした様である。
 又、正面の碑面部の上半分は龕の様に1pの深さで彫り込まれ、その下部には蓮華座が彫り込まれた分、浮き彫りさ
 れている。
 更に碑面下半分の、記銘、僧名、紀年と思われる部分は、龕に含めていない。
 最下部に埋設用の基礎部分を持たない事から、当初は台石に載せられて設置されていたと思われる。
 板碑型で廂を持つ等、珍しいものであるが、他に似た形状のものとして、
 「能勢町山内の地蔵道標」
 「10.瑞ケ丘道標伊丹市立博物館収蔵」
 廂を持つだけのものなら
 「16.天道道標(吹田市博物館所蔵)」
 「32.川西市西多田平井田筋の道標」
 等を挙げておく。
  穴太寺本尊は薬師如来、札所本尊は聖観世音菩薩とあり、梵字中央の(タラーク)虚空蔵菩薩との関係は不明であ
 る。
 梵字を三つ持つものとして、中央の種子は異なるが、
 「44.茨木市清坂109南の道標」中央キリーク、阿弥陀三尊
 「27.池田市伏尾町100の道標」中央キリーク、阿弥陀三尊
 「20.西宮市仁川百合野町の供養塔」中央キリーク、
 等がある。)
(蓮華座の上には通常、仏像や、寺名などが書かれるもので、「90丁先の穴太寺」とし、丁石ではなく道標とした。)
(正面下部の記述であるが、三分割、或いは四分割として見なければならないが、「明心」が年号の次に書かれている
 ようで、日付に関係があるものとするか、名前とするか、或いは独立したものか不明である。
 仏教用語とした場合、『Wiki曹洞宗関連用語』の「見色明心」の解説に、「物を見た時に自己本具の心性を悟ること。
 聞声悟道に対応。」と見えるように、二字で用いそうにない。又、『正法眼蔵』に「妙浄明心」がある様だが、
 「妙C」のCを「浄」とは読み難いと思う。
 人(僧)名としてみると、その上部の字の位置よりやや右に書かれていそうで、これも疑問である。結局、結論は預
 ける。
 尚、@を敬とし「敬白」とするなら、碑面は、五分割となるかもしれない。
  碑面の読みに関して、『大阪の街道と道標』P252との相違点を挙げておく。
 「善處乃至法」を「善処乃経法」
 「慶A 永隆」を「秀福 永隆」
 「恵B 妙C」を「恵珠 妙喜」
 「宗柏 明永」を「宝晴 明水」
 「妙祐 宗珠」を「□祐 宗珠」としている。名前部はさて置き、「至」と「経」では少し意味が変わるか。)

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【1.道標を南東に望む 【2.道標を南西に望む 【3.道標を南西に望む
 左(北)畑中へ  右(西)穴太寺へ  後に自然石道標
 左端が当道標】  左20m南旧道田能へ】  後々の小屋根は不明】

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【4.道標の北面拡大 【5.道標を東に望む 【6.「まちかど遺産」案内板
 ひさしは龕面より  正面の形状が  「板碑型の町石」とし
 6p前に出ている】  良く分ると思う】  穴太寺の丁石と解説】

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【7.道標北面上部 【8.道標北面中部 【9.道標北面下部
 梵字が三つ  蓮華座の上に  「明徳三」と「三月日」
 山型に配置される】  「九十町」は珍しい】  は左右に離れている】

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【10.高槻北部の道標】
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【11.高槻中部の道標】
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【12.高槻南部の道標】
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