13.宝塚市安倉南4姥ヶ茶屋の道標

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宝塚市安倉南4丁目13−48 ほぼ東西の有馬街道から南東に分岐する、姥ヶ茶屋の三叉路の南東部、
有馬道の南側、大きい方の祠内に北に面して建つ
山形角柱、背面船形 64x23x24〜26p(頂高6.5p)(木製台9p含まず)
N34.79820 E135.37895


「北面」
写真dimg1286

「西面」
写真cimg7158 写真cimg7159 写真cimg7160

(西面の合成写真、不正確です)
写真cimg7162

「東面」
写真cimg1498

(東面の合成写真)
写真cimg4543

北面
┌─――――――――――――――┐
│ 寛文八年          │
│南無阿弥陀佛 千日かくや   │
│ 申二月吉日 道心西念    │
└―――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――┐
│右ハあまかさきみち      │
└―――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――┐
│左ハいたミノみち       │
└―――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――┐
│(未確認)          │
└―――――――――――――――┘


読みは解説版に従った。
現在では祠内にあり、碑文の確認が出来ていません。申し訳ありません。
写真cimg1496 写真dimg1289
【1.案内板】 【2.上部、背面は船形、各稜線は1p下降】

(寛文八年二月一日とすると、西暦1668年3月13日火曜日となる。)
(南東へ分岐する道も有馬道(間道)とされる。)
(『たからづかの道標』(昭和61年刊)では2。「現在兵庫県下では最も古い道標のひとつ…
 寛文年間に立てられた道標が七基確認されている」とある。(2016年現在、二基未確認。下記参照)
 又、西念については、「「かぐや」という屋号で出家した西念という人が立てたものか、隔夜信仰のどちらか」
 とあるが、伊丹市博物館では、「隔夜信仰」であろうとしている。
 私見としては、「千日」が付いていることを考えると、屋号では不自然である。)
写真dimg1302
【3.北面下部
 「千日かく」と「道心西」の下は
 高さ9pの木製台に隠れている】

(寛文年間に関係した道標は、
1.宝塚市安倉南4姥ヶ茶屋の道標(この道標)(寛文8年1668年)
2.伊丹市北村の寛文九年道標          (寛文9年1669年)
3.池田市木部町3三基の内西側の道標     (寛文12年1672年)
4.川西市加茂2の道標              (寛文12年1672年)
5.箕面市西宿1(箕面山へ)の道標       (寛文12年1668年)
 西念に関係した道標は、
1.宝塚市安倉南4姥ヶ茶屋の道標(この道標)(寛文8年2月吉日1668年3月13日)
2.伊丹市荒牧5にあった道標           (延宝2年8月29日1674年9月29日)
 があります。
 余談ですが、寛文8年2月吉日(仮に一日)(1668年3月13日)祈願初日とし、
 満願供養として、延宝2年8月29日(1674年9月28日)に、宝塚と伊丹の二基を建てたとすると、
 2,391日かかったことになる。)

(祠内に有ることもあり、多少の移設はあるものと思われる。右左分岐に相応しいのは、西向きである。)

写真cimg1500 写真cimg1499
【4.有馬道上より南東を望む 【5.右(西)側祠内の右端が道標】
 中央三叉路の左側道の南側
 大きい方の祠内に建つ】

写真dimg0759
【6.宝塚東部の道標(明治44年)】

 2023/8/27 修正
「2016年現在、二基未確認」のままとしていたので、追加する。
6.池田市東山町寛文十年の道標  寛文10年1670年
7.池田市伏尾町100の道標   寛文10年1670年
8.池田市畑4の道標       寛文12年1672年
尚、『たからづかの道標』の七基には、上述の5.箕面市西宿1(箕面山へ)の道標は含まない為、一基減らし
三基追加としておきます。
又、私のまとめとして『摂津の国の道標集計』「年代別」も参照下さい。
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