箕面市西宿1 国道171号線と新御堂筋の萱野交叉点の北東公園内、小川の東、旧道(現歩道)の北側に、西を正面に建つ
尖頭型角柱 86X東面32X31p(頂高6p)
N34.830397 E135.489174




西面
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│み乃於山能入(口) │
└―――――――――――――――――┘
(変体仮名「みのお山の」は「箕面山の」であろう)
北面
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│従是西箕面山 │
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東面
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│皇都油小路四條上(ル) │
│ 中木氏 │
│天保十一庚子春(追修) │
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南面
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│ 前岩本坊 │
│寛文拾貮年壬子五月吉日 │
│ 建實法印 │
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(( )部は『箕面のみちしるべ』より)
(寛文十二(壬子)年五月1日とすると、西暦1672年5月27日、金曜日となる。)
(天保十一(庚子)年3月とすると1840年4月となる(旧暦の春は1〜3月か)。)
(説明板に『寛文十二年(1672年)箕面寺(瀧安寺)の僧により建てられた』とあり、後に追善供養で
追刻されたとある。)
(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では、66
同書に「もとは萱野小学校東側、西国街道から箕面に向う三叉路にあったが、新御堂筋建設のため現在地
に移され…」とあり、現在地を箕面市農協敷地内築山として写真が載る。依って現在地はその後の移設で
あろう。
元位置は、明治の地図に千里川の西に辻が見られるので
N34.830341 E135.488855
辺りと思われ、道が北へ分岐しているので、今の西面が南面であったと考える。
尚、箕面山は山号を示し、瀧安寺を指すものとすれば、西国街道を東から来た場合、今宮か、この地点し
かない。)
(2017年11月現在では、工事中のため、立入が禁止されていた。)
(「岩本坊」は瀧安寺の一坊であるらしく、
(国立国会図書館デジタルアーカイブの攝津名所圖會. [7]のコマ番号7を参照)にも載るが
箕面川の対岸(東岸か)に描かれているが、その名前には「前」が付いていない。
南面の「前岩本坊」がこれかどうかは分らないが、関係は有りそうに思える。)
(元位置の推定とともに、北西方向が箕面山(瀧安寺)への道となり、今の西面が、ほぼ南面(90°左回転)
していたであろうと思われ、現在の北面も良く見えるように、西面していたとすると、三ツ辻の北東部に
置かれていたとしたい。)
(『箕面のみちしるべ』や、案内板に、追修者として載る「中本氏」は「中木氏」の誤りであろうと思うが、
追修時の施主であろうか、この中木氏と、同一人物であろう氏名を持つ他の二基の道標が存在する。
比較の為の写真は下記参照。
各々詳細は、
1.「箕面市箕面4の道標」これのみ「中本」
2.「箕面市萱野2の道標」
を参照下さい。)
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【1.道標を北東に望む |
【2.道標を東に望む |
【3.道標を西に望む |
左右R171号線 |
ボンベの左、川向う |
通行禁止とあるのが |
上に新御堂の高架】 |
案内板と共に建つ】 |
旧西国街道と思われる】 |
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【4.2015年8月の様子 |
【5.東面上部拡大 |
【6.東面下部拡大 |
案内板の向きが |
左側「天保…」の |
右下「…中木…」 |
90度変っている】 |
部分はよく見える】 |
左側「…春…」は読める】 |
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【7.箕面市の道標】 |
案内板の内容

箕面山への道しるべ
寛文十二年(一六七二年)箕面寺
(瀧安寺)の僧により建てられた、市
内で最古の道しるべです。また理由は
不明ですが、東の面には、天保十一年
(一八四〇年)京都の中本氏が追善供
養を行ったことが追刻されています。
萱野小学校の東側、西国街道と、箕
面山へ向かう道との三叉路にありまし
たが、新御堂筋の建設のため、現在地
に移転され保存されています。
箕面市教育委員会
(比較の為、三基の道標を載せておく)
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【箕面への案内 |
【京への案内 |
【施主部分 |
西宿1は「山」とす】 |
西宿1には「京」なし】 |
西宿1は「皇都」萱野2は「本」】 |
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