20.西宮市仁川百合野町の供養塔

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西宮市仁川百合野町 上ヶ原浄水場からの道が北西から南西へと下る道から南東、関学方面に分かれるT字路の北東部に
南を正面に建つ
19.西宮市上ケ原一番町の道標2上ヶ原剣札型道標はこの東すぐ。)
蒲鉾型角柱 214x南面35x21p(頂高5p)(台石30x南109x105p)
N34.770355 E135.34504


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南面
┌─――――――――――――――――――┐
│ 梵字        武庫山     │
│梵字 本尊如意輪觀音         │
│ 梵字        神咒寺     │
└―――――――――――――――――――┘
(梵字は如意輪観音のキリークと二つのタラーク)

西面
┌─――――――――――――――――――┐
│        施主大坂新町     │
│ 為通達恵定信女菩提也        │
│        折屋徳兵衛母妙心   │
└―――――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――――┐
│   是与里本堂江五丁        │
└―――――――――――――――――――┘

北面
┌―――─―――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘




(説明板より、「1740年代大坂新町の折屋徳兵衛の母せんの最愛の娘かの菩提を弔って寄進」とある)
(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、37)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、34。
 同書では、神呪寺の寛保元(1741)年再建時の仏性原の本堂位置特定の資料として重要とある。
  現位置から明治の地図で5丁北西を辿ると、甲山森林公園東口の50m北辺りとなりそうで、すぐ東に
 地すべり資料館がある事で分かるように、建設位置として不適で、わずか、十五年後に現在地に移設さ
 れたのであろう。
  この様に、供養塔から本堂を推察する状況であるから、距離をもってしての移設の判断は出来ない。
  又、このすぐ東には「21.十三丁」の丁石があり、それは、現在の神呪寺を示すとされている。
  距離の表現から移設の判断が出来ないので、違う角度から考えてみる。
 明治の地図で、当所は、山裾を等高線に沿って巡る道と、甲山へ登る道が直交する四辻で、建てるに相
 応しいが、現在では、上ヶ原浄水場が作られており、大きく道の付け替え等がされたと見られる。
 それ以前は、この供養塔から、北西に一直線に道が伸びていたが、浄水場を迂回する道に変わっている。
 よこで、浄水場敷地内に存在していた場合は、現在の「十一丁」「九丁」の丁石がそうであるように、
 元位置に近い、新設された道に、移動させられていると考えられる。
 この論法に従い、当供養塔も、近所に、おもて面(現南面)を新設の道に正対させ、移設されたとする。
  即ち、元位置は、現在地から、浄水場方面に90m(11丁石までの半分)の地点までにあり、現南面が
 東に面して立っていたと思う。)
(蛇足だが、『攝津名所圖會(寛政10(1798)年出版)』に「神呪寺」と思われる記述があり、それには、
 「摩尼山神咒寺(しんじゆじ)、六甲山東面の中間(ちゅうだん)兜(かぶとの)山にあり…九想瀧、
 本堂より巽(たつみ)三丁にあり」とあり、57年後には、現在の位置に寺があった事を裏付けている。
 「35.甲山町32の九想瀧への道標」はこちら。)
 国会図書館デジタルアーカイブ、攝津名所圖會[11]、7コマ参照。)
(建立年については、知見が無いため、今後の調べとしたい。)
(折屋徳兵衛に関係すると思われるものは、67.折屋徳兵衛の道標一覧を参照下さい。)
(他の丁石については、「68.神呪寺丁石一覧」を参照下さい。)
2024/3/19 追加 「奈良県吉野山金峰神社の道標」に折屋の紀年銘あり。)

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【1.供養塔を南に望む 【2.供養塔を北に望む 【3.供養塔を東に望む
 奥(南西)六軒町へ  明治の地図では左へ  右奥(東)十三丁石と
 左旧道を関学へ】  寺へ直登の道がある】  その先に道標が見える】

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【4.供養塔を北東に望む 【5.西面下部 【6.東面下部
 西面下部に戒名と  「折屋徳兵衛」  今は道案内部分が
 施主であろう母の名】  の部分】  隠れて意味がない】

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【7.西宮南部の道標】 【8.神呪寺丁石一覧】 【9.西横説明板】


西宮市仁川百合野町の供養塔案内板
碑の西に建つ


 供養碑

この碑は江戸中期の一七四〇年代、大坂新町の
折屋徳兵衛の母妙心が最愛の娘でもあ
ろうか、一人の女性の菩提を弔って甲山観音
へ寄進した供養碑である。その側面に彫られた
「是より本堂へ五丁」は神呪寺二度目の移転地
いわゆる仏性原本堂への距離を明示し、
在宇十五年の当時の寺院所在地をほぼ明確にした
ことで資料的にも極めて貴重な文化遺産
である。     甲東文化財保会


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