67.折屋徳兵衛の道標一覧

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2024/3/19 奈良県吉野山の道標一基、追加
折屋徳兵衛の手になる道標は、尼崎に一基、西宮に五基とする資料があるが、私の見たものを5基挙げた。(西宮の
一基は不明。)
建立年については、「17.西宮市門戸西町8の道標」一つを見ても、Web「近世以前の土木・産業遺産」は、元文5
(1740)年頃、宮崎氏は、寛保(1741/2/27〜1744/2/21)から延享(1744/2/21〜1748/7/12)より前、等と所説あり、
確証もないため省略した。
「13.西宮市甲東園2の供養道標」は「甚蔵」とあるようだが、「折屋」の一族であろうとして入れた。
(多分、父親で妻は「むめ」、2024/3/19 追加)
「大坂新町」は、現在の大阪府大阪市西区新町にあたるとされる。
(『甲東の文化財を訪ねて』甲東文化財保存会、2016年、によると「下大市西町3の道標」に「神呪寺が仏性原に
 あった頃」作られたとあるが、吉野山の道標に父親甚蔵と建てた寛政十年より後と出来ると思う。理由として、
 父親の名が無く、徳兵衛単独は未婚の時、妻の名を持つものがその次、と考える。但し丁石の様に同時に複数建
 てるものにあっては、この限りにあらず。)
(吉野山の道標に紀年銘があったので、下記表に紀年を追加する。)
 
折屋徳兵衛の道標一覧
名称住所距離形状
大きさ
緯度
経度
施主、備考紀年
1. 4.西宮市下大市西町3の(小)道標西宮市下大市西町315丁
1.6q
尖頭形角柱
100x21.5x21.5p(頂高5p)(基礎部11p含む)
N34.75942 E135.36034徳兵衛+ゑゐ(奥さん?)なし
2.13.西宮市甲東園2の供養道標西宮市甲東園222丁
2.4q
尖頭形角柱
84x21x21p(頂高4p)
N34.771056 E135.36011甚蔵+むめ(奥さん?)
供養目的
なし
3.17.西宮市門戸西町8の道標西宮市門戸西町8−19なし尖頭形角柱
92x東面21x20.5p(頂高4p)
N34.762444 E135.354607徳兵衛(単独)なし
4.20.西宮市仁川百合野町の供養塔西宮市仁川百合野町5丁
0.5q
頭丸形角柱N34.770355 E135.34504徳兵衛の母妙心(単独)
供養目的
5丁は仏性ケ原へか
なし
5.22.尼崎市守部神社の(北)道標尼崎市南武庫之荘8−1550丁
5.5q
山形角柱
92x21x21p(頂高5p)(基部2p含む)
N34.747101 E135.38251徳兵衛(単独)なし
6.54.奈良県吉野山金峰神社の道標吉野郡吉野町吉野山1651大峯尖頭型角柱
187x32x31p(頂部、基部含まず)
N34.341804 E135.881685願主
甚蔵+む免+
徳兵衛+ゑい
寛政10年4月
1798年


1.bS.西宮市下大市西町3の(小)道標


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北東面
┌――――――――――――――――――――┐
│  施主 大坂新町           │
│  折屋徳兵衛 同ゑゐ         │
└――――――――――――――――――――┘

南東面
┌――――――――――――――――――――┐
│              是より   │
│すぐ加婦と山観音            │
│              十五丁   │
└――――――――――――――――――――┘
(「加婦と山」は「かぶと山」「甲山」か)


2.bP3.西宮市甲東園2の供養道標

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北面
┌─―――――――――――――――┐
│右かぶと山道 二十二丁     │
│左西之宮道           │
└――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――┐
│    や奈 施主大坂新町   │
│    み門          │
│ 為俗名みゐ 菩提折屋甚(蔵) │
│    □い          │
│    □つ 同む(め)    │
└――――――――――――――――┘


3.bP7.西宮市門戸西町8の道標

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東面
┌─―――――――――――――――┐
│右か婦と山道          │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│  施主大坂新町        │
│    折屋徳兵衛       │
└――――――――――――――――┘


4.bQ0.西宮市仁川百合野町の供養塔

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写真cimg5002

写真dimg4604

南面
┌─――――――――――――――――――┐
│ 梵字        武庫山     │
│梵字 本尊如意輪觀音         │
│ 梵字        神咒寺     │
└―――――――――――――――――――┘
(梵字は如意輪観音のキリークと二つのタラーク)

西面
┌─――――――――――――――――――┐
│        施主大坂新町     │
│ 為通達恵定信女菩提也        │
│        折屋徳兵衛母妙心   │
└―――――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――――┐
│   是与里本堂江五丁        │
└―――――――――――――――――――┘





5.bQ1.尼崎市守部神社の(北)道標

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東面
┌─――――――――――――――――┐
│左か婦と山道 是より       │
│       五十丁       │
└―――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――┐
│右大坂              │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│ 施主大坂新町          │
│   折屋徳兵衛         │
└―――――――――――――――――┘




6.bT4.吉野山金峰神社折屋の道標


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(北面)
┌─――――――――――――――――┐
│    大坂新町 折屋甚蔵    │
│         同 む免    │
│左大峯 願主           │
│         折屋徳兵衛   │
│         同 ゑい    │
└―――――――――――――――――┘
(「む免」は変体仮名「むめ」)
(「ゑい」も同様「えい」)

(西面)
┌─――――――――――――――――┐
│ 寛政十戊午歳四月建之      │
└―――――――――――――――――┘

(南東面)
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

(東面)
┌─――――――――――――――――┐
│    世話人          │
│ 岩組  吉川太兵衛       │
└―――――――――――――――――┘




【施主部比較】

【1.下大市西町3の(小)道標
写真dimg4382
   施主 大坂新町
   折屋徳兵衛 同ゑゐ】

【2.甲東園2の供養道標
写真dimg4562
   施主大坂新町
   菩提折屋甚(蔵)
   同む(め)】

【3.門戸西町8の道標
写真dimg4259
   施主大坂新町
   折屋徳兵衛】

【4.仁川百合野町の供養塔
写真cimg5003
   施主大坂新町
   折屋徳兵衛母妙心】

【5.守部神社の(北)道標
写真cimg6485
   施主大坂新町
   折屋徳兵衛】

【6.吉野山金峰神社の道標
写真jimg9684
   大坂新町
    折屋甚蔵
    同 むめ
 願主
    折屋徳兵衛
    同 えい
写真jimg9675
   寛政十戊午歳(1798年)四月吉日建之


写真dimg3829 写真dimg3838
【6.西宮南部の道標】 【7.神呪寺丁石一覧】

【大坂新町について。】
 喜多川守貞著『守貞謾稿(もりさだまんこう)』巻之二十一(娼家上)
(上記『守貞謾稿』巻之二十一は、岩波文庫『近世風俗志(三)』によった。嘉永六(1853)年の書と思われる。)
 『大坂新町の曲輪』として、
 「しんまちと云う。大坂官許の遊女町なり。本名は瓢箪町と云う。…開発は元和(1615〜1624)中にて、…延宝八
 (1680)年刊本『難波鑑』に曰く、瓢箪町夜見世三月朔日、…一と年火災の難にかかりしより、…昼ばかりの出入り
 となれば…」や、「ある書、当廓開発寛永(1624〜1644)中云えり。初めは西の大門一口のみ。東口は明暦三(1657)
 年に開き、…南に出る口は享保九(1724)年。…北に出る口は宝暦四(1754)年に開き、…北に出る口の二所は天明六
 (1786)年に開けり、云々。その後、天保(1830〜1844)の火災より吉原東口を開けること、予が知る所なり。」
 とある。
【折屋について。】
 『天神置屋、天神妓名』の項で、
「『妻しるし』に所載。浮橋・花揚等、天神の名。…
 置屋の名、倉橋や・楓屋・尾張屋・葭屋・千草屋・松屋・津国屋・扇屋槌之助・森田や・大黒や・紙屋・近江や・
 折屋・綿や・いせや。以上十五戸の内、楓やは天神のみ、…その他は天神と芸子を抱え置けり。」
 と「折屋」の名が見える。
 更に、
「新町遊女惣員…太夫二十四人。天神百二十二人。…惣計、一千零三十五人。延宝の『難波鑑』には二千二百余人云
 々…」とあり、この折屋は、置屋であり、当然婦女子が沢山おり、夜の仕事でもあり、火災に会う事も多かったと
 思われる。(火事に会うたびに、出入り口が増えるのは避難口の確保が目的であったようだ。)
  私の「13.西宮市甲東園2の供養道標」の中の稚拙な考察で、「使用人の供養塔等は無いのでは」、としたが、
 施主が、上記書による「折屋」と一致するならば、度々の火災のどれかにより、被災(焼け死んだ)した天神等の
 婦女子を弔うために建てたとしても良いかもしれない。
 『妻しるし』(西尾市、岩瀬文庫)に、女子の名前が一致するようなものがあれば、建立年は一気に絞れるかもし
 れない。今後の調査とする。
 2024/3/19 参照先を変更
(尚、国立国会図書館デジタルコレクション『守貞漫稿巻二十一』コマ番号[28]等で参照可能。
 それに「折屋」は『妻志留』天保十四年刊に「新町の茶屋」として「通り筋」の西から五番目にあったとある。)
  その他、『澪標』寛政10(1798)年再版、天明三年(1783)初版、靖中菴 畫の「揚屋の分」の「茶屋の分」にも
 「通り筋 筒井屋仁助」等に続き「同 折屋弥兵衛」が書かれている。
(「通り筋」は前頁に載る廓の地図にあるメインの通りの名前と思われる。)
(国立国会図書館デジタルコレクション『澪標』コマ番号[74]参照。「澪標」は「みをづくし」)
(西宮ブログの中の「にゃんこさん」『御茶家所町の道標』に折屋徳兵衛に関する、この様なブログを見つけました。
 「感動しました。私は本籍地まさに大坂新町です。折屋弥兵衛が本家と思います。
 お墓の戒名みてますと初代弥兵衛宝暦14年没(1764年)です。西宮4ヵ所と尼崎武庫之荘1ヶ所を現地で見た
 ときは感動と感激を覚えました。次は吉野山に行き徳兵衛と甚兵衛の道標を確認に行きます。
 このブログは甥がみつけてくれました。にゃんこさんありがとうございました。折屋より。
 [折屋一族より] 2012/03/17 16:45:09」
 とあり、一挙に真実味が出てきました。追跡調査とします。)
 2024/3/19 追加開始
(2024/3/15調査してきました。判明した点を挙げておきます。
 先ず、この道標には紀年銘があり、作成年月が確定しています。「寛政十(戊午)年四月」とあり、西暦1798年5月
 奥の千本でも花見が終わっていたと思われる頃に建てられています。当時は今で言う「山開き」に当るものとして、
 一般人は四月八日から入山可能とされていたようで、それに合わせて建てられたとなるのでしょうか。
  願主として二組の名前があり、順番からすると「甚蔵、むめ」夫妻が親で、「徳兵衛、えい」夫妻が次の代と察
 せられます。先の初代「弥兵衛」没後34年になる為、甚蔵さんが二代目か三代目になると思われるが、商売人な
 れば死んで後に後を継ぐ様な事はないとし、一代を20年見当とすれば、初代の「弥兵衛」さんから一代とばし、
 三代目「甚蔵」、四代目「徳兵衛」辺りになるのでは無いかと思う。
  これに依り、施主に「甚蔵」とあるものが古く、「徳兵衛」が新しいとします。
 又、実子であるなら「折屋徳兵衛母妙心」は「甚蔵」の妻「むめ」になると思われます。)
 2024/3/19 追加終了

【江戸時代の大坂の大火について。】
 府立中之島図書館による、第46回大阪資料、古典籍室1の小展示「近世大坂の大火」に
1.「妙知焼け」 享保9(1724)年
 享保9(1724)年3月21日午の刻(正午)、南堀江橋橘通三丁目(現・西区南堀江二丁目)金屋治兵衛の祖母妙知尼
 宅より出火、折からの強風に煽られて燃え広がり、翌22日申の刻(午後4時)に鎮火するまで、大坂三郷の実に
 3分の2にあたる408町が灰燼に帰す大惨事となった。
 なお、この火災の際に東西の両町奉行所も焼失したが、これを機に西町奉行所は、それまでの東町奉行所の隣から、
 東横堀東岸の内本町橋詰町北側(現・中央区本町橋)に移転した。
2.「堀江・島之内大火」 寛政3(1791)年
 寛政3(1791)年10月10日寅の刻(午前4時)、南堀江・伏見屋四郎兵衛町(現・西区南堀江)より出火、翌11日
 卯の刻(午前6時)鎮火。南北堀江、島之内を焼き尽くし、焼失町数は87を数える。
3.天保5(1834)年7月11日の大火
 天保5(1834)年7月11日子の刻(午前0時)、堂島新地北町(現・北区堂島中)より出火、30町、3カ村に延焼し、
 翌12日辰の刻(午前8時)鎮火。

【神呪寺について】
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【山門と新一丁石を北望】 【本堂下階段を南望】 【本堂前を東に望む】 【本堂を北に望む】

神呪寺、建造物変遷(同寺HPより抜粋)
(開山当時の名称は「摩尼山、神呪寺(しんじゅじ)」で「感応寺」という別称もあったようだ。
 山号も後に「武庫山」と変わり、先代、光玄(〜平成17(2005)年3月30日)のときに現在の「甲山」となっている。)
神呪寺の歴史
西暦出来事
天長5828年淳和天皇第四后、如意尼、霊山甲山に入る。
天長8831年10月18日本堂落慶。
寿永年間1182〜5 年源頼朝が梶原景時を奉行として、諸堂を再建。
天正年間1573〜91年織田信長、荒木村重を追討。その際、多くの堂塔を焼失。
慶長41599年神呪村の寺地へ下山。
貞享21685年54代、寛隆、本山を元の所へ引き移すために、奉行所に願い出る。
正徳31713年10月大阪番所に願い出て、寺地に諸堂を建てる。
享保41719年諸堂、完成。
寛保11741年堂塔の一部を仏性原に移す。
寛延21749年本堂を現在の所に移す。
寛政101798年 6月甲山八十八ヶ所、完成。
享和31803年神呪寺、西国三十三ヶ所、完成。
天保91839年 8月 5日彼岸中日の法会中、本堂の棟が崩落。
天保111841年 2月23日本堂、再上棟。
昭和421967年 7月 8日集中豪雨により、庫裏が倒壊。
平成71995年 1月17日阪神淡路大震災。諸堂の一部が崩落。

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