13.西宮市甲東園2の供養道標

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西宮市甲東園2 西宮道から、かぶと山道が分岐する、仁川学院小学校の北西五辻(オ型)、
西へ坂を上る道の南側に北を正面に建つ
尖頭形角柱 84x21x21p(頂高4p)
N34.771056 E135.36011


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北面
┌─―――――――――――――――┐
│右かぶと山道 二十二丁     │
│左西之宮道           │
└――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――┐
│    や奈 施主大坂新町   │
│    み門          │
│ 為俗名みゐ 菩提折屋甚(蔵) │
│    □い          │
│    □つ 同む(め)    │
└――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

南面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(西面、同む(め)は「西宮の街道」より)
(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、33)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、38。
 同書に、五人の婦女子の菩提の為…折屋は「おきや」でもあったのであろうか。を受けての説明板の記述か
 説明板には、「折屋甚蔵が使用人であったみつ、やな、などの五人の婦女子の死を悼み」とあるが、使用人
 の菩提を弔うは考えにくいと思うが、
  『守貞謾稿』岩波文庫、近世風俗志、喜多川守貞、に、大坂新町折屋なる置屋が紹介されている。
 『西宮の道標』に、「折屋甚蔵の本家は、折屋徳兵衛」としているが根拠は書かれていない。
 又、建立を神呪寺が仏性原に移った宝暦五年(1755)以降としているのは、「かぶと山道二十二丁」を根拠
 にするものか。
  明治の地図で、現神呪寺迄3.1q(28丁)、仏性原比定地まで最短2.0q(18丁)、現関学正門経由で2.2q
 (20丁)となり、値の近さだけ見れば、仏性原を指すように思えるが微妙である。最短距離で22丁なら、現
 森林公園内のみくるま池西端に達し、西横の案内板では、「甲山観音が現在地へ移った1760年(宝暦10年)頃
 の建立」としている。
 ただ気を付けなければならないのが、この「二十二丁」が追刻の可能性がある点で、上部とは明らかに筆跡が
 違うと共に、この部分の碑面の風化の具合が新しく感じられる所にある。)
(折屋徳兵衛に関係するものを、67.折屋徳兵衛の道標一覧にまとめた。)
(辻の南に、12.西宮市甲東園2両名刹への道標
 辻の東に、14.西宮市甲東園2のだんのうえ道標がある。)
68.神呪寺丁石一覧はこちら。)
2024/3/19 追加 「奈良県吉野山金峰神社の道標」に折屋の紀年銘あり。)

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【1.道標を南に望む(右端) 【2.道標を南東に望む 【3.道標を西に望む
 奥右(南)西宮道  左奥(東)は段上へ  奥(北)甲山観音へ
 右、甲山観音へ】  右は高木、厄神さん筋】  今は阪急今津線を跨ぐ】

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【4.西横案内板 【5.道標西面下部 【6.道標西面下部2 【7.道標北面下部
 甲山観音が現在地へ  俗名の部分が  光線の具合を変えて  「二十二丁」と
 移ったすぐあと?】  うまく読めない】  撮ってみたが?】  取って付けたかの様】

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【8.西宮南部の道標】 【9.神呪寺丁石一覧】


西宮市甲東園2の供養道標の説明板
道標の西側に建つ


 供養道標

甲山観音が甲山を下り神呪、仏性原に、そして現地に
移ったすぐあとの一七六○年ころの建立で、神呪寺までの
距離二十二丁とあります。この道標は大坂新町の
折屋甚蔵が使用人であったみつ、やな
などの五人の婦女子の死を悼み、その菩提を弔う
ために寄進したことが右面の碑文字ではっきりしています。
おそらく非業の死をとげたであろう者たちへの主人の
思いやりとおもわれます。 甲東文化財保存会


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