12.西宮市甲東園2両名刹への道標

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西宮市甲東園2丁目13 仁川学院小学校北西部の五叉路、南行路の東部に西を正面に建つ
尖頭形角柱(頂部6p角平面) 85x21x21p(頂高4p)
N34.77093 E135.36029


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西面
┌─―――――――――――――――┐
│右厄神明王道          │
│    八丁          │
└――――――――――――――――┘

南面
┌─―――――――――――――――┐
│荒神道             │
│  是ヨリ 四十丁       │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│是ヨリ南            │
│高木今津道           │
└――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――┐
│西ノ宮             │
│藤田源治郎           │
└――――――――――――――――┘


(説明板に「昔の有馬道(西宮〜有馬)と今津・高木道の分岐点」とある。)
(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、32)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、39。
 同書では、「剣先のようにとがった道角にたっている」と書き、写真の背景もそれを裏付け
 ている。依って近接移設とする。又、現西面が、北面していたように見受けられる。
  ただ、厄神明王道「八丁」では、「11.西宮市門戸西町7の道標」辺りとなり、現東光
 寺(1.2q)には達せず、疑問が残る。
 これを、荒神道「四十丁」から見ると、「9.西宮市門戸東町8の道標」の「荒神道五十
 丁」から此処までは、1.2q(11丁)の距離があり、こちらは問題なさそうである。)
(辻の西に、13.西宮市甲東園2の供養道標
 辻の東に、14.西宮市甲東園2のだんのうえ道標がある。)

写真dimg4546 写真dimg4461 写真dimg4465
【1.道標を南東に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を北に望む
 左(北)宝塚へ  左(南)は高木へ  奥(北)荒神へ
 元は右電柱辺りか】  右はやくじんさん筋】  右垣根は学校】

写真dimg4466 写真dimg4467 写真dimg4495
【4.北横案内板 【5.道標を東に望む 【6.道標上部を北東に望む
 施主は酒造業とし  左下「八丁」が  上部は6p角の平面
 廻船問屋と異なる】  窮屈に見える】  欠けたものか不明】

写真dimg3829
【7.西宮南部の道標】


西宮市甲東園2両名刹道標説明板
西宮市甲東園2丁目13 道標南側に建つ


 両名刹への道標

この場所は昔の有馬道(西宮〜有馬)と今津・
高木道の分岐点にあたる。この道標は西宮で
酒造業を営んでいた藤田源治郎が建てたもので
門戸厄神と清荒神への道しるべである。建立した
年代は十九世紀前半であり、建立者名の入った
数少ない道標の一道しるべである。源治郎は当時荒れ
果てていた清澄寺(清荒神)修復の話が持ち上
がったとき、その援助者の一人となっている。酒造家
であり、荒神さん修復者の一人でもある源治郎が、
酒米他物資輸送の重要街道であり、かつ自分の
かかわった荒神さんへの参詣道でもあるこの
場所に供養を兼ねて建立したものであろう。
ただ、本来立てられていた場所はここではなく、
向かいの分岐点に立てられていたが、宅地開発の
関係でこの場所に移したものである。 甲東文化財保存会


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