9.西宮市門戸東町8の道標

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西宮市門戸東町8 南北の道に東からの道が突き当たるT字路の北東に南を正面に建つ
説明板には「くらがり街道道標」とある
尖頭形角柱 75x21x21p(頂高3p)(尖頭上部は水平にカットされ6x6pの平面となっている。)
N34.76138 E135.35548


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写真cimg2362

写真cimg2363

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南面
┌─―――――――――――――――┐
│右尼大坂高木道         │
└――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――┐
│荒神道             │
│ 是ヨリ北五十丁        │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――┐
│左厄神明王道          │
└――――――――――――――――┘


(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、25)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、43。
 同書では地上高45pとあり、下部が埋れて判読できないと記されているが、現在では下部まで
 見える状態に戻されており、埋まっていた痕跡も見える。)
(西面の意味は、ここから北50丁は、荒神道のことか、北へ50丁の所に荒神道があるの二通りが
 考えられるが、荒神を宝塚の清荒神とすると、武庫川をどう渡るかによるが50丁では届かない。
 しかし、旧道を想定し50丁進んだ近辺に、「荒神道」と呼ぶにふさわしい道も見当たらない。
 現在の地図で、直線距離50丁(5.5q)の地点は、緩急宝塚線清荒神駅南辺りとなり、参道入口
 には少し足りないが、ここから北への道を「荒神道」と呼び、大雑把に五十丁としたとする。
 尚、西宮市域の道標で「荒神」を使うものが他に
 1.2.西宮市門戸岡田町4の厄神道標  是より門前まで北へ五丁/中山荒神三田有馬道
 2.12.西宮市甲東園2両名刹への道標  荒神道/是より 四十丁
 の二基が有り、何れもこの南北の道上に設置されている。)
(案内板にある「くらがり街道」は、丹波杜氏が西宮に着くころには暗く成っていた道だからと
 言われているようだが、案内板にある通り、出典根拠が不明で、実際にこの辺りでそう呼んだ
 かも、怪しい様に思う。何故ならどこの道でも日は暮れるのである。)
(この道標の南30mには、47.西宮市門戸西町3二基の社標がある。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標南の案内板
 奥(北)宝塚へ  奥下大市へ地震後拡幅  くらがり街道は
 右下大市、高木へ】  元は右側溝迄の狭い道】  南北の道を指すのか】

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【4.道標西面拡大 【5.上部を北西に望む
 「北五十丁」  頂上部は平坦に
 と読める】  仕上げられている】

写真dimg3829
【6.西宮南部の道標】


西宮市門戸東町8の道標説明板
西宮市門戸東町8 道標の東側に建つ


 くらがり街道 道標

くらがり街道の名称の由来については不明である。
今のやくじんさん筋(旧県道)の呼称である。この道標は
守部の渡しから大市八幡の横を通り、西国街道を横切り
ここくらがり街道を経て門戸厄神へ。またここから
北へ腹切り地蔵、神呪寺仏性原への道標脇を通り
今津高木道との分岐点に建つ両名刹への道標から清荒神
への道標である。昭和の初めまで大市からはこの道しか
なく付近一帯は田畑であったという。 甲東文化財保存会


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