2.西宮市門戸岡田町4の厄神道標

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西宮市門戸岡田町4の西国街道との分岐点の北東部に南西面を正面として建つ(西国街道)
尖頭形角柱 147x南西面32x30p(頂高8p)
N34.754927 E135.353102


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南西面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│      日本               │
│(左指差像)   厄神明王社(社の半分埋没) │
│      三躰               │
└―――――――――――――――――――――――┘

南東面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│すぐ京都伊丹池田道(道の半分埋没)      │
│   左ハ参詣ちかみ(ち)          │
└―――――――――――――――――――――――┘

北東面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│文久二(壬)戌冬再建(加治□代)松井源(兵衛)│
│すぐ西宮兵庫   (□□□□)中屋権(兵衛) │
│         (□□□□)播磨屋喜(兵衛)│
│         (□□□□)大和屋半(兵衛)│
└―――――――――――――――――――――――┘

北西面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│是より門前まへ左へ五丁            │
│ 中山荒神三田有馬道(道の半分埋没)     │
└―――――――――――――――――――――――┘


(左指差像は浮き彫りでなく、指の周りを掘り下げているのみ。)
(文久二(壬戌)年は西暦1862年である。)
(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、23)
(北西面は、『新西宮歴史散歩』133頁や、「Web「的形道標クラブ」等では、「西へ五丁」としているが、
 「左へ五丁」とした。
 「左」にした理由は二つ。 
 先ず、「門前まで西へ五丁」の門前を門戸厄神東光寺とするなら、現地からは北方向となり、「西」は相応
 しくない。距離こそ8丁となり疑問は残るが、方向なら北しかない。
 下大市や、上大市辺りにあったとし、そこからの移設としない限り「西」はあり得ない。
 次に、「西」の字は北東面にもあるが、第一画目の「一」の様な部分の彫り(入り)具合が異なり、此方は
 西のくずし字には見えず、南東面にある「左」と同じに見える。
 もし、西が正しければ、明治の地図で見る限り、この近辺に道自体が少なく、近所ではない場所からの移設
 を検討しなければならない。(道標である為、方向のミスプリは論外とします。))
(移設について、南東面の案内は、西国街道を進むためのものと思われるが、「すぐ」とあるので、現在のま
 までは北西方向を示す事になり、案内としては不適であり、「左ハ参詣近道」とあるのも、南東に面してい
 ては、南西を指し、門戸厄神への参詣に行くべき北ではない為これも無理がある。即ち移設はされている。
 設置方向の詳細については、下記再建問題で詳しく述べる。)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、47。
 同書には、南東面を右面として、二行目を「尼ハ参詣ちかみち」としているが、これは誤りであろう。又、
 「…碑表の社名と他面の碑文字は同一人の筆になるものでなく、碑表の社名の刻字のみがきわめてあたらし
 いものであることが一見してわかる。恐らく文久二年の再建の折の再彫とも考えられる…」としているが、
 この理論に従えば、「文久二年再建」と彫られた北東面が古くて、それ以降に、南西面「厄神…」が彫られ
 たことになり、南西面は更に新しいことになる。
  下に示した「甲東文化財保存会」の考えでは、南西面が古いと受け取られ、一致していない。
  私なりの考えをしめしてみる。
 「再建」について、現在の様に、古いものはオリジナルとして残し、模写して、新しいものに「再建」とし
 たものでは無く、旧石標を再利用したものとする。理由は、費用面と、近辺に更に古い道標等が無い事。
 先ず碑面の新旧から、石面の状態から見て、『西宮の道標』の指摘の様に、南西面「厄神…」が新しい。
 (石面がツルットしており、風化が進んでない事による。)
 即ち、古い面に「再建」があるので、再建時より後に、南西面「厄神…」が彫らている事になり、南西面
 「厄神…」は三番目、二番目が「文久二年再建」と彫られた北東面となる。(建立後二度改変された。)
 では一番目(最初)はどの面だったのか、南東面「すぐ京都…」、と北西面「中山荒神三田…」とすれば、
 現南東面を90度時計回しに回転すれば、「すぐ京」は、北東西国街道上りに一致し、現北西面が、北東
 側に見え、右(北)へ、有馬への分岐となる辻に相応しい。但し「右」と明記していないので、辻の北西
 部に位置したのではないかと思う。
  次に再建時を考えてみる、理由は不明だが、元あった状態で、現北東面を彫ったなら、それは、南東面
 になり、「すぐ西宮」がこれも、西国街道下り方向と一致し問題はなく、「…再建」や「すく西宮」の文
 字の配置を見ると、この面全体がこの時に彫られたと考える。
  因みに、再建時のこの面の「すぐ」と、現南東面の旧「すぐ京都…」の「すぐ」は別人の書と思われる。
  次に、三番目の「左指差像」は現在の位置と向きで正しく、門戸厄神を指示しており、現在地へ移設す
 る時に、彫られたものと思う。前述の再建時の向きでは、北東面が空いており、そこで、厄神を指し示す
 為には、手前(又は、背後)としなければならず、指差しでは表現できない。今の辻北東部へ移すことに
 より、左方向とせざるを得ず、他の面の整合性など気にせず、厄神参詣のみを第一、且つ無二としたと思
 える。)
(その他、気になる点として、一つ、尖頭型角柱としたが、厳密には、頂部は角錐ではなく、丸みを帯びた
 稜線となっている。これは特に珍しくはないのだが、稜線の長さが等しくなく、24pと22pの二種で
 出来ている(24pが現南西面への稜線)。即ち、頂点は、角柱の中心上に無く、北東に寄っている。
 最初からそうなっていたのか、北東面(再建とある面)を削り込んだ為、そちら側の陵が短くなったのか
 等が考えられる。現南東面の幅(奥行)が、南西面に比べて2p短いことが、再建時に2p削り取ったこ
 とを裏付けているのではないか。「すぐ京都…」の文字の彫り込みが最深2.5pであることから、削り取っ
 た面には、別の文字、「すぐ西宮兵庫」だけが、大きく刻まれていたとするのは考えすぎか。)
(「ちかみち」を何故付けたのか、この地に有って左(北)への道は一本しかないにも拘らず、「近道」と
 した理由は何か。
 此処より西国街道を北東800mの辻、下大市の集落から西進する道(尼崎方面からは厄神道と呼ぶ)が
 本来の「参詣道」であるとし、それとの比較なら、「近道」に違いないが、参詣道に本道はあるのか。
 「ちかみち」の表現をもつ道標として、
 27.宝塚市中山寺山門前(東側)の道標          「清水江通りぬけち可道あり」
 31.池田市吉田町485の地蔵道標             「右ハよし川ちか(道)」
 等がある。)

写真dimg4818 写真dimg4820 写真dimg4328
【1.西国街道より道標を 【2.道標を北に望む 【3.道標を南東に望む
 北西に望む、右は京へ  左指し指の面は  左(北東)、京へ
 左(北)門戸厄神へ】  南西に面している】  右、西宮・兵庫へ】
写真dimg4828 写真dimg4311 写真dimg4330
【4.北西面下部拡大 【5.南東面のキズ? 【6.非対称頂部を北西に望む
 右行の「へ」の下  都と伊の間の点は  北東面側が削取られた
 「左へ」と読める】  文字ではない】  可能性がある】

写真dimg4300
【7.北東面、合成写真】

写真dimg3829
【8.西宮南部の道標】

「厄神道標」の説明板

写真cimg0607

 厄神道標
この道標は、むかし西国街道と有馬街道と
いったふたつの旧道の分かれ道に建てられ
ている。道標をよく注意してみると四面の刻字
のうち指向手形の下の字体と他の三面の
字体が異なっている。道標には文久二年再建
と刻字されていいることから、指向手形のある
日本三躰厄神明王と刻字されていた道標を
何かの理由で文久二年に再建されたと
考えられる。従って、この道標自身は古く
おそらく江戸中期のものと思われる。
  甲東文化財保存会


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