4.西宮市下大市西町3の(小)道標

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西宮市下大市西町3、北東から南西に続く西国街道に北西から南東への道が交差し、更に東北東南に向う道がある五辻の
北西部に南東を正面に建つ
(大小二基のうち、左(西)側の小さい道標)。 大道標はこちら。
尖頭形角柱 100x21.5x21.5p(頂高5p)(基礎部11p含む)
N34.75942 E135.36034


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北東面
┌――――――――――――――――――――┐
│  施主 大坂新町           │
│  折屋徳兵衛 同ゑゐ         │
└――――――――――――――――――――┘

南東面
┌――――――――――――――――――――┐
│              是より   │
│すぐ加婦と山観音            │
│              十五丁   │
└――――――――――――――――――――┘
(「加婦と山」は「かぶと山」「甲山」か)

南西面
┌―─――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

北西面
┌―─――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、22)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、49。
 同書に、神呪寺が仏性原に本堂があった時、34、41の道標と一連のものとしている。又施主は
 「折屋妙心の総領である徳兵衛夫妻」とし、同寺保存の古文書の「再建当時危篤の者あり云々」が
 あり、「これが折屋一家をさしているに違いない」とする郷土史家の説を採って、「建立年代が割合
 はっきりとしている」としているが、年代は書かれていない。(案内板は元文5(1740)年頃とする。)
(34は、当資料の、20.西宮市仁川百合野町の供養塔、41は、11.西宮市門戸西町7の道標
(距離について、「20.西宮市仁川百合野町の供養塔」に5丁とあるので、これと同じ道筋であるなら、
 当所から、供養塔までが10丁なら問題なしであるが、明治の地図では2.0qとなり、8丁足りない。
 即ち、「仁川百合野町の供養塔」から同定した「神呪寺」の位置(甲山森林公園東入口辺)からここ迄
 の距離は「23丁」程度になる。もし、此処から、十五丁距離が正しいなら、現、関西学院大学の中に
 あった事になる。
  西横の案内板に、移設とあるので、上で同定した「神呪寺」の位置(甲山森林公園東入口辺)から、
 明治の地図上で想定されるルートを、15丁下って来ると、山陽新幹線トンネル入口の西の新幹線記念
 公園の南辺り、厳島神社への参道との分岐点(上甲東園4丁目)辺りとなってしまい、元位置とするに
 は現地点から遠すぎ、又、道標を置くに相応しい辻等が見当たらない。
  依って、神呪寺が仏性原にあった当時に一連で建てられたものとするのは当たらないと思う、逆に、
 この道標と、20.仁川百合野町の供養塔の施主である、折屋徳兵衛が同一人物であるなら、違う時期
 に建てた為に、異なる場所を指し示す状況になったのではないか。
  神呪寺の歴史はよく分からないが、江戸時代以降を見て、古くは神呪村に有ったとされ、それを現在
 の関学の校内に比定し、次の仏性ケ原を森林公園東入口辺りに、更に後、現在の位置へ移ったとし、当
 道標が、関学校内の位置に有った時の案内である、としたら、当道標のほうが古く、「20.仁川百合
 野町の供養塔」の方が新しい事を示す証拠となるのではないか。
  この説を採るなら、建立は、寛保元(1741)年以前から、最も古くて、享保4(1719)年迄の間となる。
 『守貞謾稿』に、大坂新町開発は元和(1615〜1624)中、と有るので、施主の住所とは矛盾しないであろう。
  折屋徳兵衛に関係するものを、67.折屋徳兵衛の道標一覧にまとめ、ここに、神呪寺の歴史も載せた。
 又、68.神呪寺丁石一覧はこちらにまとめた。)
2024/3/19 追加 「奈良県吉野山金峰神社の道標」に折屋の紀年銘あり。)

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【1.道標を北西に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を東に望む
 左右は西国街道  右奥(北東)伊丹へ  手前が当道標
 奥(北西)厄神へ】  左門戸厄神へ】  右側道の下暗渠の川】

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【4.南東面下部 【5.道標西の説明板 【6.北東面下部拡大
 15丁は8丁不足か  両名刹は甲山と厄神  施主住所と名前
 現関学辺りで正解か】  「後年移設」とある】  基礎部分11p露出】

写真dimg3829 写真dimg3838
【7.西宮南部の道標】 【8.神呪寺丁石一覧】
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