5.西宮市下大市西町3の(大)道標

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西宮市下大市西町3、北東から南西に続く西国街道に、北西から南東への道が交差し、更に東北東南に向う道がある五辻の
北西部に南東を正面に建つ
(大小二基の石標があり、右(東)側の大きい道標) 小道標はこちら。
尖頭形角柱 142x南東面25x25.5p(頂高6p)
N34.75942 E135.36034


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北東面
┌――――――――――――――――――――┐
│すぐ 尼嵜 大阪            │
│         道          │
│左  伊丹池田京            │
└――――――――――――――――――――┘

南東面
┌――――――――――――――――――――┐
│日本                  │
│   厄神明王道            │
│三躰                  │
│    是与里すぐ西江五丁       │
└――――――――――――――――――――┘

南西面
┌――――――――――――――――――――┐
│ 是ヨリ西宮江 三十丁         │
│     尼嵜生魚           │
│         上積中        │
└――――――――――――――――――――┘

北西面
┌―─――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、21)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、50。
 同書に、「厄神明王社へ寄進の数ある道標の中での最古のもので江戸時代中期、すなわち隣にたつ
 甲山観音への道標と同じ年代に建立されたものであることが形状、筆跡、汚損の状態などから推定
 できる。
  昔はもっと離れて建っていたと思われるが、…一まわり大きくした所など当時の人の感情がにじ
 み出ていておもしろい。」
 とあるが、隣の道標にも、紀年名はなく上記理由も年代特定には薄弱なように思う。
  又当道標の方が後に建立されてとする理由も不明。)
(移設に関しても、明白な根拠は書かれていないので、ここでは、距離を手掛かりに見てみよう。
  北東面の、「左、伊丹、池田、京」が西国街道を指す事は疑いないとし、方位に関する説明もな
 いため、これを北西面とする。
 結果、現南東面が北東面となり「厄神明王道」が今の北西方向への道に正対しなくなり、やや不自
 然となる、そこで、方向を付け「すぐ西江五丁」としたのか。ただ現位置から東光寺(厄神)門前
 迄でさえ、680m(6.2丁)で少し足りない。(「47.門戸西町の道標二基」迄なら550mで一致。)
  一方、南西面は南東面となり、西宮方面への案内がしっくりと来るようになるが、明治の地図と
 山崎通分間絵図(文化3年(1806年))を使い、ここから、西宮神社の表大門前までの距離を見ると、
 4.3q(39丁)、阪神電車高架下の上天神橋までで、3.3q(30丁)となり、西宮村の北東端迄とす
 ると、合いそうだが、どうであろうか。距離から得られる位置の手掛かりは少ないようだ。
  施主であろうか、「尼崎生魚上積中」から考え、尼崎方面から、門戸厄神へ行く人は、南東の、
 助兵衛新田村から、或いは南、高木村から、ここへ来て、西国街道に出会い、更にここから北西へ
 続く、主要な辻は、道標(社標か?)を建てるに相応しい所である。
  しかし、西横に建つ説明板には、二つの道標は、「むかし、別々の場所にあったものを、後年こ
 の場所に移した」としているだけで、元の位置については書かれていない。
  尚、この場所が、解説板に言う「百合戸橋」であるなら、山崎通分間延絵図では、同橋にある辻
 は三ツ辻で、南からの道しかなく、少し北東か、反対南西に行かなけば、西方への分岐道はない。
 描かれた水路から判断すると、北東に5〜60mの三ツ辻、南西もほぼ同じ距離に四辻がある。
 もし、この二地点に分かれて建っていたなら、絵図の感じから、この厄神への道標が、南西の辻に
 あり、甲山への小さい道標が、北東にあったと思える。
  この両道(辻)は、明治の地図、44年発行、27年発行の何れにも記載はない。)
(上にも書いたが、南東面の「是与里すぐ西江五丁」と南西面の「是ヨリ西宮江三十丁」の「是より」
 等を見ると、字体の違いもさることながら、雰囲気も異なり、碑面の文字バランスも考え合わせると、
 南東面のこの部分は追刻ではないかと思う。移設に合わせ追刻したとなると元位置はさらに混迷。)
(「山崎通分間絵図」は東京国立博物館のホームページ
 「調査・研究」タグの内の
 「画像検索」で
 『五海道其外分間絵図並見取絵図』を検索し
 『山崎通分間延絵図全1巻』の中の、本文28で見ることが可能。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を南西に望む
 左奥(南西)西国街道  右奥(北東)伊丹へ  右奥(南西)西宮へ
 右(北西)厄神へ】  左門戸厄神へ】  90度左に回す要あり】

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【4.南東面拡大 【5.此の辻の説明板 【6.道標西の説明板
 「是」の下「里」との  「百合戸石橋」とあり  両名刹は甲山と厄神
 間は「与」とした】  絵図にも石橋が載る】  「後年移設」とある】

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【7.西宮南部の道標】 【8.『山崎通分間延絵』下大市辺り、
 
 中央継目右に、百合戸石橋があり、
 
 南に野道は有るも、北への道は無し】

 2024/10/7 【訂正】
 北東面の読み下し「大坂」に誤りがあり訂正しました。ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。
 誤:すぐ 尼嵜 大坂
 正:すぐ 尼嵜 大阪
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