17.西宮市門戸西町8の道標

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西宮市門戸西町8−19 東西の道から北に分かれるT字路の北西部に東を正面に建つ
尖頭形角柱 92x東面21x20.5cm(頂高4p)
N34.762444 E135.354607


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東面
┌─―――――――――――――――┐
│右か婦と山道          │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│  施主大坂新町        │
│    折屋徳兵衛       │
└――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

南面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、29)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、42。
 同書に、「寛保、延享年間の、いわゆる仏性原に寺院があった当時に建立されたものであることにほぼ
 間違いはない。」とし、同一人の筆になるものとして、他に二基有るとしてて、
 6.西宮市南甲子園三丁目の民家の道標(東川川底より出土とある)(筆者未見)
 4.西宮市下大市西町3の(小)道標
 を挙げている。
 建立年の出所は書かれていない。
 Web「近世以前の土木・産業遺産」では建立は、元文5(1740)年頃とし、宮崎氏の寛保(1741/2/27〜
 1744/2/21)、延享(1744/2/21〜1748/7/12)よりも前で、折屋徳兵衛の手になるものとしては、尼崎に
 一基、西宮に五基としている。
  当資料では、西宮で4基。67.折屋徳兵衛の道標一覧はこちらを参照してください。)
(明治の地図から判断すると、当地は、東70mで、上大市からと、下大市からの道が合流し、更に南北の
 有馬道/西宮道が交わる五辻から、西甲山方面へ向かう道筋にあり、このまま西に直進すると、谷筋を
 通って登れそうな様子であるが、行き止まりで阻まれてしまう。この三叉路で北に登り、尾根筋を進み、
 現上ヶ原に出る必要があり、道標が無ければ多く間違う地点であったのだろう。
 尚、明治44年刊地図で、現在の西宮高校の南から、関学南東部の新月池迄の道が描かれていない点が気
 にかかるが、障害となる地形も無く有ったものとした。(明治18年測量地図も同様。)
 又、この北200mに、同じく西の神呪寺への道があり、「11.西宮市門戸西町7の道標」が建っており、
 その案内板にも、此方の道筋が、本道であるとしている事も助けとした。)
(折屋徳兵衛に関係するものを、67.折屋徳兵衛の道標一覧にまとめた。)
68.神呪寺丁石一覧はこちら。)
2024/3/19 追加 「奈良県吉野山金峰神社の道標」に折屋の紀年銘あり。)

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【1.道標を北西に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を東に望む
 右(北)甲山へ  明治の道は右の民家  左(北)上ヶ原へ
 左、今では上ヶ原へ】  辺りまで残る】  70m奥に有馬道/西宮道】

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【4.道標を西に望む】 【5.西横案内板
 
 旧道の経緯もあり】

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【6.西宮南部の道標】 【7.神呪寺丁石一覧】


西宮市門戸西町8の道標説明板
道標の西に建つ


 甲山神呪寺への道標

今をへだてる約二百年昔、大坂新町の折屋徳兵衛
寄進の甲山神呪寺への道標である。
折屋家は極めて信心のあつい篤志家で特にお大師さんを
信仰し豪華な供養塔の外、このような道標三基を
建立している。この道標の脇を通る道は、大坂や尼崎
方面から守部の渡しを通り甲山観音へ参詣する道
(尼・大坂道)で、右の方にわずかながら、残っている。
左の道は少し先にあった水車小屋までの道で、
昭和三十年代に上ヶ原に通じる道として拡張され
延長されたものである。
 甲東文化財保存会



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