19.西宮市上ケ原一番町の道標

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西宮市上ケ原一番町−1 関西学院大学北西部、西宮市仁川百合野町3−4から南東へ下る細道が、
北東から南西にに流れる、上ヶ原用水を越えた、四辻の東部に北西を正面に建つ
(神呪寺への十三丁丁石の東側)
山形角柱 80x西面20.5x15.5p(頂高5p)(基部16p含む)(基礎部が露出しておりやや太い、西面23x18p)
N34.770212 E135.34518


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西面
┌─――――――――――――――――┐
│ 右 西宮            │
│春ぐ 尼崎 道          │
│ 左 中山            │
└―――――――――――――――――┘
(「春」は変体仮名の「す」)

南面
┌─――――――――――――――――┐
│施主 西宮者りまや喜八      │
└―――――――――――――――――┘
(「者」は変体仮名「は」)

東面
┌─――――――――――――――――┐
│右 中山             │
│    道            │
│左 西宮             │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│(梵字ユ)南無大師遍照金剛    │
└―――――――――――――――――┘
(梵字ユは弥勒菩薩の種子か)


(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、36)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、36。
 同書には、「2.西宮市門戸岡田町4の厄神道標」の施主の一人、播磨屋喜兵衛と同属に思える、としているが、
 案内板では、不明であるとしている。)
(説明板にもある様に、この地を明治の地図で見ると、四辻が一ヶ所描かれている。現在はすぐ西に浄水場への道が
 あり「キ」型の辻になっているが、古くは無かったと思われ、甲山神呪寺へは、北西へ直登していたと思える。
  この道標の東面の案内を見ると、甲山、神呪寺が彫られていない。これは何を意味するのか。
 北面に「遍照金剛」とあるから弘法大師真言宗であろう、では神呪寺を案内するのか、或いは中山寺へ行けと云う
 のか。この地では、「すぐ甲山」とあって然るべきが無いのは解せない。登りは一本道で案内の必要もないとした
 為か、寺が無かったのか。)
(中山は、中山寺への道を示すと思われ、此処を北に少し進んだのちは、東方面に下りとなり、現阪神競馬場方面に
 抜ける道であろうと思われるが、明治の地図では小径よりも細い道として描かれている。)
(橋の西には「21.西宮市仁川百合野町3の丁石」があり、西20mを北に曲がった北東部には
 「20.西宮市仁川百合野町の供養塔」(元位置はこの道標と同じと推理した)があり、道標を必要とする地であ
 ったのだろう。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を北西に望む
 左側が当道標  中央木の下当道標  奥(西)甲山へ
 右(西)甲山へ】  奥、旧道は関学内へ】  橋は上ヶ原用水路に架かる】

写真dimg4584
【4.南横の案内板
 三方への分岐点と
 解説されている】

写真dimg3829
【5.西宮南部の道標】


西宮市上ケ原一番町の道標案内板
道標の北に建つ


 称名入り剣札型道標

弥勒菩薩の梵字「ユ」を戴いた道標は、市内
にはこの一基しか残されていない。この場所は
西宮・尼崎・中山三方面への分岐点である。尼崎
への道はこの道標から南東に向っていたが
関西学院がこの地に移転し来って以来
現在はその敷地内を通っている。この道標は
小型ながらもしっくりした味のあるもので、施主
は播磨屋喜八である。当時の有力商人で
播磨屋を称する者は数人見られたが、喜八は
彼らと同属であるかは不明である。

         甲東文化財保存会


(説明にある梵字ユはローマ字yの様な字であるが、
北面「南無大師遍照金剛」の上であろうか?)

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