44.茨木市清坂109南の道標

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茨木市清坂109 府道43号から北に分岐し道なりに310m、西に山道がある三ツ辻の東部に、西を正面に建つ
(清坂児童公園道をはさんで、南東10m。)
尖頭型角柱 117x31x31p(頂高10p)(台石20x東面57x55p含まず)
N34.913378 E135.551422


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南面
┌────――――――――――――――┐
│左 そうじ寺道           │
└――─―――――――――――――――┘

西面
┌────――――――――――――――┐
│ 梵字 寶譽樹林鶴山大徳      │
│梵字           位    │
│ 梵字 願譽恵光智海禪尼      │
└――─―――――――――――――――┘
(梵字は、右より、サ、キリーク、サク、
 観音菩薩、阿弥陀如来、勢至菩薩の種子
 『わがまち茨木』より。「鶴」のウ冠は大きい)

北面
┌────――――――――――――――┐
│右 阿なを寺道           │
└――─―――――――――――――――┘

東面
┌────――――――――――――――┐
│安政四丁巳歳 施主         │
│         中嶋氏      │
│ 四月十五日造立          │
└――─―――――――――――――――┘


(安政四(丁巳)年四月十五日は、西暦1857年5月8日金曜日となる。)
(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では46)
(同書に「本来は…氏の墓碑であろうが、その側面を道しるべに利用している。…西方極楽浄土を願う人の墓碑である。」
 としているが、地元の方の話では、「道しるべ」と聞いているとのことで、元は道の西側に立っていたとの事です。
 北面「右阿なを寺」を亀岡の穴太寺、南面「左そうじ寺」を総持寺にすることは問題ないとすると、現在の向きは完
 全に逆で、やはり、180度回転させられて置かれている。明治44年の地図でも、南北が主要な道で、西へは素戔嗚神
 社のある山への野道が描かれており三ツ辻ではあるが、特に道を間違えそうな地点では無く、南北の道が巡礼道であ
 る事を確認させるような道標と思われる。
 この北100mには、狩待峠へ分岐する三ツ辻(現H字辻)があり、そこには「清坂71西の地蔵型道標」が立っている。
  尚、明治44年の地図には、現府道43号にあたる道が清坂峠まで続いているが、徒歩による峠越えは、此方の道の方
 が適していたと思われ(距離も短い)、峠の名称は分らないが、そこに「清阪63地先の道標」がある事もそれを裏
 付けるものとする。
  又、『わがまち茨木』(街道編)、教育委員会、平成4年刊に「清坂街道」があり、それより要約すると、
 「『大阪府誌』より、起点は福井村大字福井、石河村、見山村大字清坂に至る2里13丁で、明治25年以前は亀岡街道
 と呼ばれた。古来は清坂峠丹波街道と呼ばれ、明治9年に県道2級に仮定、明治18年に国見峠部分を西側に改修、明治
 25年に大岩・清坂間を清坂街道に指定。」とあるが、清坂峠部分の詳細は記述されておらず、付図をみても、現府道
 43号に近い線が描かれている。
 一方、私の入手した、明治22年の地図では、今の府道43号に近いと思われる道は「小径」として描かれ、上記の巡礼
 道とした道が、県道「亀岡大坂道」として描かれている。よって古くはこの経路が幹線であったものと思われる。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を南西に望む
 奥、清坂71道標へ  奥(南)府道43号へ  右(西)山道へ
 左上、児童公園】  最近、墓碑に改装】  元位置は道の西側】

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【4.道標北西方向拡大 【5.道標東面上部 【6.道標南西方向拡大
 左側が南面  元はこの面が  右側が北面
 「左 そうじ寺道」】  道に面していた】  「右 阿なを寺道」】

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【7.茨木北部の道標】
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