37.1.能勢町名月姫墓所案内碑(観光用か)

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能勢町柏原62−2 府道4号町立名月グランド東名月峠バス停(道路南)の西横に北東を正面に建つ
地蔵道標の南西20m、墓への道の南側)
角柱 118x23.5x14.5p
N34.963673 E135.421637


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北面
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│左 名月姫墓所           │
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西面
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│(なし)              │
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南面
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│(なし)              │
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東面
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│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行には未記載)
(観光用に建てられたものの様に思えるが、「左」とあるので一応道標として取り上げておく。墓への道は
 広場の南端に東へ峠の最高点迄続いているが行止りになっている。現在の舗装路は切通しとなっており、
 古くはこの道が一般道であった可能性もある。解説板にある、姫が能勢大里から神戸福原に至る途中にこ
 の峠で自害、との解説を信じるなら、東の田尻へ出てそこから南下し池田のルートを採ったものと思われ、
 この道が主要道であったものか。
 現在なら西、或いは南へ進み、国道173号に出て南下する方が距離も短いと思うが、当時この経路が無か
 ったものか。
  平清盛(1118〜1181年)の時代には及ばないが、国立公文書館の「元禄国絵図1696年」等で当時を
 推察するのは可能か。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を南に望む 【3.地蔵道標(手前)と
 奥(東)墓所へ  左(東)墓所へ  当碑(奥、電柱左)
 左に府道が見える】  右、柏原へ下る道へ】  を南西に望む】

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【4.墓所を東に望む 【5.名月姫の解説板 【6.墓所を南東に望む
 右奥は行き止まり  姫、自害の場所と  中央が名月姫の墓
 左下に府道が通る】  解説されている】  と解説板にある】

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【7.能勢町西部の道標】 【8.能勢町東部の道標】
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