51.能勢町倉垣橋西の題目塔道標

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能勢町倉垣354 国道477、倉垣橋交差点から府道732号を西へ270mの四辻を北に20m、旧道東側に
西を正面に建つ
自然石 158x79x41p(碑面高115p)(台石33x92x100p)
N34.970211 E135.462653


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西面
┌――――――――――――――――――┐
│ 右 清正宮是より三丁       │
│南無妙法蓮華経           │
│ 左 妙見山是より五十丁      │
└――――――――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――――――――┐
│弘化二巳四月 信者中        │
└――――――――――――――――――┘
(「者」は一見「志」に見える)

東面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(弘化二(乙巳)年四月1日とすると、西暦1845年5月6日火曜日となる。)
(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では51)
(同書に「元この付近から清正宮へ分かれる辻の西側に北面したと思う。」とある。土地の方にお聞きする
 と、この北からの道は旧街道であったらしく、570m北には「能勢町倉垣歌垣郵便局北の道標」があるこ
 とでも納得できる。
 弘化の時代でも街道筋として良いであろう。ただ、「清正宮是より三丁」とすると、この辻ではあり得ず、
 神社の位置が変わっていなければ、「三丁」を四丁未満(436m)と解釈しても、この街道筋全てが、適
 当でなくなる。
 「三丁」に拘るなら、この道筋より400m以上西の道を探さねばならない。「三」を「五」のくずし字と
 して「五丁」(545m)と見ても同様である。
  一方の妙見山からの距離では位置を同定することは難しいが、北から妙見山への道筋としては新旧を除
 けばこの道筋に置かれて当然であろう。
  では、「三丁」を誤りとし、この南の辻に北面していた、或いは一つ北(60m)の三ツ辻に、北面又は
 東面していたとすると不都合は無くなるが、誤記は考え難いと思う。むしろ彫りの深さ等から追刻と移設
 を考え、元は距離が無く、宮近くへ移設に伴い距離を追刻したが、圃場整備等で再び元に近くに移設され
 たとしたなら、建立時は、現在地の南の辻に、北面していたとしても問題はないと思う。)
(尚、当道標のすぐ南の辻を通っていると思われる道が、国立公文書館の「天保国絵図」の野間中村
 と野間稲地村の間、野間川の北に赤線で示されているのではないかと想像する。
 明治の地図では「自亀岡及園部至池田道」と表現されている道が小川を越えた南で三ツ辻を成し、そこで
 西折れした道が清正公堂へと向かっている。この辻に立っていたなら、辻の南西部に北面或いは東面して
 いたと思う。この時、「清正宮是より三丁」を参道の入口、例えば鳥居が建っている地点までの距離を示
 していると都合よく解釈すると、それらしい地形がある。こうすれば追記云々は不要。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を東に望む
 左後方旧道を亀岡へ  左右、府道732を  左右、旧妙見道
 背後、府道732へ出る】  右(西)清正宮へ】  下部左右に距離】

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【4.道標西面左下部 【5.道標西面拡大 【6.道標西面右下部
 「是より五十丁」  碑面は平らに整形  「是より三丁」
 は細いが読める】  字「南」は廂部も削る】  も細いが読める】

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【7.能勢町西部の道標】 【8.能勢町東部の道標】
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