61.能勢町野間稲地釈迦堂への道標

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能勢町野間稲地173 R477と府道4号の野間稲地交差点を西へ120m、四辻の北東部に南を正面に建つ
(野間の大ケヤキ北西部辻)
自然石(三角柱状) 53x34x30p(北面幅38、北東面幅39p)
N34.946491 E135.450138


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南面
┌―――――――――――――┐
│    尓し山      │
│御志やかとふ道      │
└―――――――――――――┘
(「尓」は、変体仮名「に」)

北東面
┌―――――――――――――┐
│(なし)         │
└―――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――┐
│(なし)         │
└―――――――――――――┘


(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では61)
(同書では「…大ケヤキ西の道が…、道に西面して御釈迦堂道を案内したものである。」とあり、写真では
 道路上に見え、現在は、道路東の畔上に南面することから、近接移設であることが分る。
 「尓し山御志やかとふ」は「野間西山御釈迦堂」として、北方約700mの今養寺を示すものであろう。
 明治の地図では、筋違いの四辻らしく南への小径はすこし東から分かれている様に書かれている。
  又、北東から御釈迦堂を案内する「地黄南町集会所東の道標」も参照下さい。)
(又、同書に「造立施主は野間西山村で、恐らく釈迦堂再建の文化年間(1804〜18017)に立てたものであ
 ろう。」とあるが根拠は書かれていない。『能勢町史』の「文化年中(1804年から1818年まで)に領主能
 勢頼直によって釈迦堂が再建」によるものか。尚、年号「文化」は1804年2月11日から1818年4月20日の様
 である。)

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【1.道標を北西に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を南に望む
 奥(北)今養寺へ  奥(東)妙見山へ  やや左、大ケヤキ
 右、稲地交差点へ】  左、西山今養寺へ】  右(西)野間出野へ】

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【4.道標を北に望む 【5.道標南面拡大 【6.道標上から見下ろす
 道路上から側溝を  右下一見「なし山」  下辺が南面となる
 越え畔の上に設置】  「尓し山」とした】  西面は不整のまま】

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【7.能勢町西部の道標】 【8.能勢町東部の道標】
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