67.能勢町野間大原の道標

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能勢町野間大原431 地黄郵便局40m南の辻を東へ野間大原方面に道なりに1㎞、
山中のほぼ峠の三叉路南東部に北西を正面に土手に埋め込まれている
山型板碑 90x53x22㎝(頂高9㎝)(下部凹部23x9x-0.5㎝、下辺迄3㎝)
N34.950044 E135.464643


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北西面
┌――――――――――――――――――┐
│ 右 お王ら            │
│南無妙法蓮華経 為先祖代々聖霊   │
│ 左 いぬかんのう         │
└――――――――――――――――――┘
(「王」は「わ」の変体仮名)
(「ヨ」の下に「大」で「霊」のくずし字)

南西面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北東面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

南東面(写真無)
┌――――――――――――――――――┐
│(不明)              │
└――――――――――――――――――┘


(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では№67)
(第一印象、「こんな所に立派な道標がなぜ。」であった。
 前書に「この道は、野間神社祭神がはるばる大和から遷座があったことにより古来から布留道とよんでい
 る。」とあり、野間神社の社頭掲示板には、「能勢郡神社仏閣由来」から「奈艮県天理市の石上神宮の分
 霊を布留道(布留大明神が当地へ遷座の時通つた道)「大原越え」を通り「…地黄長者七郎屋敷江移ス、
 地黄布留大明神ト号ス」とあり、古くは社号を「布留宮」「布留社」「布留大明神」と呼んでいた。」と
 の様にも書かれている。地黄集落の切れた辺りに「民開林道布留道線」の石碑があり、それに「昭和34
 年度施行山号林道…延長2089m…」とあるので当地点を通過している道の名前として良いだろう。
  そこで「右おわら」は「右大原」、「左いぬかんのう」は「左犬甘野」と比定し、大原はすぐ南の野間
 大原とし、犬甘野は亀岡市西別院町犬甘野としてみると、道標の設置に相応しい地点である。
 明治の地図でも、聯路の道の辻として記載されており、主要道であったと想像できる。
  尚、西別院町犬甘野への道は同定できておらず未調査ですが、現林道の堀越峠に向かう道では無く、東
 に越えるものか。
 又、南の野間大原への道は、妙見山への道となり、「大原206の道標」に続くとできるのではないか。)
(この道標750m東に北の妙見奥ノ院への参道と交差する辻があるが、その案内が無いことを見ると、奥ノ院
 への通行量が少なかったか、妙見信仰流行以前の建立であったものか。「今谷道の奥ノ院道標」等参照。)

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【1.道標を南東に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を北西に望む
 左(東)犬甘野へ  奥(東)犬甘野へ  奥(北西)地黄へ
 右、野間大原へ】  土手高約2m】  左、野間大原へ】

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【4.道標南西面左側 【5.道標南西面中央 【6.道標南西面右側
 「左いぬかんのう」  「南無妙法蓮華経」  「右お王ら」
 彫が浅いが読める】  と読める】  「王」は変体仮名「わ」】

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【7.道標上面を北西に望む 【8.道標南西面中央下部 【9.民開林道布留道線
 裏面は埋まり見えない  「…代々聖霊」とした  の石碑を南に望む
 多分自然石のまま】  下辺は下まで3㎝の所】  道標から現道700m西】

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【10.能勢町西部の道標】 【11.能勢町東部の道標】
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