25.能勢町上杉の妙見道道標

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能勢町上杉278 霊雲寺から北西400m辺り山中の池の西の三ツ辻に南西を正面に建つ
自然石(三角錐状) 54x32x30p
N34.955809 E135.387463


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南西面
┌―――――――――――――――――┐
│左 妙見道            │
└―――――――――――――――――┘

南東面
┌―――――――――――――――――┐
│ 廿三(半)           │
└―――――――――――――――――┘
(( )部は『能勢の道しるべ』より)

北東面
┌―――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

北西面
┌―――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘


(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では25)
(同書に「神山や三草山越えできた人に「左妙見道」を教える道標である。こんな所にも妙見参りの人が相
 当あったことが伺われ、…」とある。
 明治の地図で見ると、北神山からここを通り霊雲寺の東を過ぎ上杉の南部で今の府道603号に出る小径が
 描かれており、「左妙見道」とされる道は描かれていないようである。又、この地点辺りから北へ進み稲
 荷坂峠の北にある別の峠を越え平野に至る間路があり、これの方が稲荷坂峠より道が緩やかではないかと
 思われる。
  即ち、「こんな所」ではなく、神山から来る人も、平野から来る人も、南西の阿古谷から来る人も通る
 道で結構な賑わいがあった道かと想像できる。地元の方の話では「牛などもよく通った」ともお聞きした。
  尚、現在の国土地理院の2.5万分の1地図にも、北の神山に続く道が載るが、未踏査である。
 又、三草山の北中腹にある「能勢町長谷山王社東の道標」にも続くものと想像するが、この道は描かれて
 いないように見えるが、サイノ神峠へは、一度神山へ下らずに近道である為、現実には存在したと思う。
  又、「神山」は「こやま」と読むとは、地元の方の話である。)
(北東面下部の紀銘を、前書では「□三半」とし「施主らしい刻銘があるが判読できない。「三半」は三浦
 半兵衛でも意味するものであろう。」としている。近辺に三浦姓が多い為であろうか。
  □の部分は一部剥離しているが、彫跡が残り「廿三…」と読め、「半」とした字が読めない。道標の建
 設が能勢町史に「明治時代」とあるようで、紀年を示す可能性も考えられるがいかがであろうか。
 もし明治23年(庚寅)であれば西暦1890年となるが。)
(参考、同書に「丸尾の相撲碑前」とあり、碑面に「若竹」とあり義太夫であろうと考えていたが、『能勢
 町史』の上杉の「若竹市兵衛力士碑」に「西郷では天保年間から常盤山門人の竜田川、小鴉、大角、若竹
 など多かった中で竜田川が有力で猪名川取締りの頭取となった…」とあり、力士にも「若竹」が有った様
 である。尚、この相撲碑は明治5年8月建立のようで、前述の明治23年なら道標の方が新しいことにな
 る。)

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【1.道標を南東に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を北西に望む
 左下、妙見道  右下、妙見道、稲荷峠へ  奥、谷からの道に合流
 右奥、霊雲寺へ】  左、神山方面は未踏査】  その先神山方面は未踏査】

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【4.道標南西面拡大 【5.道標北東面拡大 【6.道標を南東に望む
 「左 妙見道」は  「廿三(半)」と  右手前は西寄りに建つ
 綺麗に読める】  見えるがどうか】  「若竹市兵衛」の石】

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【7.道標への進入路を南に望む
 中央個人墓地の手前の防獣網を
 潜り妙見道を50m西に上り道標】

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【8.能勢町西部の道標】 【9.能勢町東部の道標】
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