6.三田市下田中の道標

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三田市下田中155−1 神明寺東門入って右手本堂との間に東を正面に建つ
自然石(上部欠損) 92x71x24p
N34.880932 E135.235239


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東面
┌――――――――――――――――――┐
│ 右 大坂中山           │
│奉納西国巡禮供養塔         │
│ 左 京あたご           │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――┐
│ 天保三辰年            │
│    四月            │
│   同行             │
│     五人           │
└――――――――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(天保三(壬辰)年四月1日とすると、西暦1832年5月1日火曜日となる。)
(『さんだの道標』教育委員会2000年刊では6)
(同書に「明治39年の下田中区耕地整理事業の際、農水路道の改修により移動し置かれたもので、広瀬橋南
 にあった由。」とある。明治43年測図大正2年発行の地図には広瀬橋は無く、京都と大阪に分岐する様な
 辻も見えずこの記述から元位置を割り出すのは難しい。昭和26年発行の地図までは武庫川は神明寺のすぐ
 南を流れていたようで今も農道に痕跡が残る。依って川の北側で、案内が相応しい元位置(辻)を探すと、
 候補地が二点見つかり、一つは現、三田中町にある相生橋北詰の
N34.885184 E135.228495
 四辻であるが、距離が遠すぎてこの寺へ移設する理由も見当たらず、此処では無いと思われる。
 二点目は寺の東、同じ下田中の三ツ辻の少し東で旧河川左岸土手跡辺り
N34.880970 E135.239524
 にあった三ツ辻である。
 此処であれば、右は旧武庫川を渡り南西道場方面、左は北東の桑原方面から波豆を経由し京都へとなり、
 西面して立っていたと考えれば案内に相応しい。
  尚、左北東への道は現在では付け替えられた武庫川で途切れているが、川の北側には今も旧道があり
 東へ進めば「下田中山彦橋西の道標」に繋がっており、その道標も「京、愛宕、妙見」を案内する。)

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【1.神明寺を南に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標東面拡大
 奥、寺へ続く道  やや右より木の下に  「右大坂中山」
 左手南東、道場へ】  尖った道標が見える】  「左京あたご」】

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【4.道標東面左部 【5.道標東面中央部 【6.道標東面右部
 「左京あたご」の  上部が欠けて  「右大坂中山」の
 下に文字は無し】  「奉」は下半分】  下にも文字は無し】

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【7.道標西面左部 【8.道標西面中央部 【9.道標西面右部
 「同行五人」と  右側「天保…」  「天保三辰年」
 よく読める】  左側「同行…」等】  「四(キズ)月」とした】

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【10.三田北部の道標】
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【11.三田西部の道標】 【12.三田東部の道標】
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