52.三田市永澤寺西の道標1(二基の内南側)

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三田市永沢寺 永澤寺東山門より県道49を西へ550m四つ辻を北へ70mの三ツ辻東側山裾に寝かされる
(旧道では南北の道から南東の寺に分岐する三ツ辻であったと思われる東部に二分され置かれる)
(もう一基「永澤寺西の道標2」はこちら)
山型角柱 上部31x25x14p(頂高2p)、下部39x25x14p
N35.016687 E135.24129


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上面
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│    ││□□正道考順      │
│    ││□□重翠居士      │
│(座像)││            │
│    ││龍山常直信士      │
│    ││ …妙智大姉      │
└――――┘└――――――――――――┘

右面
┌――――┐┌――――――――――――┐
│ 天保十││□卯年十月日      │
└――――┘└――――――――――――┘
(卯年より□は「四」と思われる)

左面
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│  右三││田           │
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下面(写真無)
┌――――――――――――――――――┐
│摂丹両国堺青野原村         │
│摂州母子村吉田六右衛門       │
│     桧田紋右衛門       │
│     今北左衛門        │
└――――――――――――――――――┘
(下面は『さんだの道標』より引用)


(天保十四(癸卯)年十月1日とすると、西暦1843年11月22日水曜日となる。)
(『さんだの道標』教育委員会2000年刊では52)
(同書に「陽刻地蔵尊座像。墓石と思われる。」とあり、像下部で折れてはいるが、上下に積んで立つ写真が
 掲載されている。)
(上面は同書が墓石とするように、四人の戒名のようなものが書かれており道標的な要素はない。ただ位号が
 書かれている事が墓石とは直結しない点を注意する必要がある。確認はできなかったが裏面に施主らしき名
 前もあるなら、供養塔型の道標とすべきかも知れない。
  上面を上に向けたまま起こすと、南西面となり、左面の案内が北西に面する事となる。この辻は北西から
 来て当辻で南に向きを変へ三田方面へ進む道が主要道(詳細は道標2参照)と思われ、道なりに山裾を南東
 に進むと永澤寺に出る地形であり、明治の地図にはその状態が描かれている。現状(2019)では南東への道
 はほぼ通行出来ないが痕跡は残っており、南の道は地道ながら県道を横切り南の山に登っている(未踏査)。
 北西から来ると左側面の案内「右三田」が正面に見え、道なりに永沢寺に向かわず、南に分岐する事を指示
 しており、納得できる案内である。
  北側にある「永澤寺西の道標2」も同様であるが、そちらは正面がほぼ西を向いており、本来なら北面、
 或いはこれと同様北西面していたものと思われる。)
(右面の紀年を同書は「天保十年卯…」とするが十年は「己亥」で「卯」年は「天保十四年」となる。丁度折
 損部分に当たるため「四」が飛んだものと思われる。尚、天保は十五年までで、それ以外の十の付く卯年は
 あり得ない。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を北に望む
 防獣柵右奥に当道標  右(南)が当道標  手前の二基が当道標
 背後に県道49号】  塀奥右南東へ道跡】  一番手前が上部】

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【4.道標左面上部 【5.道標上面上部 【6.道標右面上部
 「右三」の「三」  座像しか無さそう  「天保十」と
 の下で折れる】  山型としたが?】  ハッキリと読める】

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【7.道標左面下部 【8.道標上面下部 【9.道標右面下部
 「田」の下部が残り  左三人よく見る位号  「卯年十月…」の上に
 その下は欠けている】  右端「道」で僧侶か】  「四」の一部が残る】

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【10.道標を北東に望む
 奥が手前の左側に
 載っていたと思う】

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【11.三田北部の道標】
写真fimg7009 写真fimg7013
【12.三田西部の道標】 【13.三田東部の道標】
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