9.神戸市北区有野町有野195の道標

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神戸市北区有野町有野195 県道506号堀越橋西の三叉路南西部石垣上の木の根元に東を正面に建つ
自然石 109x70x42p
N34.807362 E135.207494

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東面
┌─―――――――――――――――┐
│ 右 者りま 亨保十五戌一月日 │
│奉納三十三所勸世音菩薩     │
│ 左 村 西國同行七人     │
└――――――――――――――――┘
(「者」は変体仮名「は」「右播磨」か)

北面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

南面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(亨保十五(庚戌)一月1日とすると、西暦1730年2月17日金曜日となる。)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では北区26)
(同書は「北区では最も古い享保十五年(1730)建立の道標である。…掘り起こせば同行七人の名や紀年銘も判然と
 して堂々たる道標となる…」とし「有野町堀越橋西詰」とあり、蓮華花紋様が題目の下にあるごとく記述していて、
 写真を見る限りは背後の土手に埋っている様に感じられる。さて現在(2019)の様子を見ると、東西の県道からも
 南へ分岐している道からも見ることが出来ない三ツ辻南西部の石垣の上(切通しの擁壁上)に有り、道路改修によ
 り近接移設されたものに違いない。
  明治の地図を見ると当所の北30m辺りを旧道が南東から北西に向かっていて、小川の西から南への道が分岐する
 三ツ辻(西、須佐男神社への道も入れればK字状四辻)に見える。新道を付けるに当って辻が南西に移動したと思
 える(昭和10年地図では付け変わっている)。そこから南への道は山に向かい先に集落は見えない。
N34.807521 E135.207764
 辺りになるのではと思う。
 依って右(北西)が播磨方面となり、左は西の須佐男神社への道か、すぐ南西の墓地への道を指すものと考えられ、
 東から北東に面して立っていたと想像する。「村」は距離的にも道標の東にある堀越で、同行七人はこの村の人達
 であろう。自分たちの墓地、或いは神社への道に誤って入らないようにと配慮して建てたものの様に思うが、如何
 であろう。
  この道標の東700mには「有野町有野784の道標」が建っておりその案内は「左三木ひめし(姫路)」として
 おり当道標の「播磨」との矛盾は無い。)
(追記、2020年2月には、道標の西(後)にあった木は切り倒されていた。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を北に望む
 白い看板の間に  右(東)五社へ  右、後共に崖下に道
 当道標が有る】  左は播磨方面へ】  左は墓地等に続く】
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【4.道標を西に望む 【5.道標東面左上部 【6.道標東面右上部
 左手は墓地、  「左 村」は  「右 者りま」
 奥、下の道に続く】  堀越を指すか】  「右播磨」であろう】

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【7.道標東面拡大 【8.道標東面左下部 【9.道標東面右下部
 「…勸世音菩薩」  「西國同行七人」  「亨保十五戌一月日」
 の下は無さそう】  と読める】  と読める】

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【10.北区東部の道標】
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