30.神戸市北区道場町日下部民家庭の道標

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神戸市北区道場町日下部 県道38号道場南口駅北側の踏切の東50m三ツ辻北東の民家の庭に南を正面に建つ
(三ツ辻には「道場町日下部南口踏切の道標」が建つ)
山型角柱 (61x48x20p)
N34.857035 E135.223639

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南面
┌─―――――――――――――――┐
│(地蔵立像か)         │
└――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――┐
│天保八(年  みき)      │
│     右          │
│      (あかし)     │
└――――――――――――――――┘
(( )部は『北区旧有馬郡の道標』より)

北面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――┐
│       なた       │
│     左          │
│木元(氏)  飛よこ      │
└――――――――――――――――┘
(「飛」は変体仮名「ひ」で「兵庫」か)
(( )部は『北区旧有馬郡の道標』より)


(天保八(丁酉)年1月1日とすると、西暦1837年2月5日日曜日となる。)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊には未記載。『北区旧有馬郡の道標』荒木勉2006年では4)
(民家内の為外からの観察だけであることをお断わりしておく。
 正面が地蔵像で、右面に「右、三木、明石」、左面に「左、灘、兵庫」と案内したものであろう。
  尚、「木元」は氏名であると思われるが、明治の地図では「木ノ元」と字名でもあるようだ。)
(明治の地図で当地を見ると四辻であり、西は現在の八多町中(中村)へ出て上小名田から三木方面へ、南は田尾寺
 から現在の有馬口に出て灘、兵庫方面となっている。依って現在の南面を北から東の間に向けて当時の四辻南西部
 に立てられていたものと思われる。南への道は大正15年発行にあり、昭和25年発行の地理院地図では西に移動
 し筋違いの四辻に見える。
  尚、上記書には現三ツ辻の少し北側の道の西側に北面して立つと思われる写真が載るが、この状態で左に進むと
 日下部か道場川原に行き、灘・兵庫の案内には相応しくない。この時点で既に移設されていたものと思われる。)

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【1.道標を北東に望む 【2.三ツ辻を南に望む 【3.道標を北東に望む
 左奥、八多川で行止り  突当り左、日下部へ  正面が南を向き立ち
 門扉の隙間に当道標】  南への道は西20mに】  地蔵像が刻まれるか】

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【4.道標西面拡大 【5.道標南面拡大 【6.道標東面を望む
 「左」は隠れるが  中央葉蘭に掛り  「天保八…」は
 「なた/ひよこ」】  蓮座が見える】  かろうじて読める】

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【7.左下「南口踏切の道標」より
 南西を望む、南行する道は
 自販機の辺に付け変わったか】

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【8.北区東部の道標】
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