11.神戸市長田区明泉寺町2の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
神戸市長田区明泉寺町2丁目 南禅寺派明泉寺(大日寺)本堂東前灯籠の東に南を正面に建つ
自然石 46x32x22p(台石35x83x43p)
N34.681335 E135.144033


写真himg0582

写真himg0584

写真himg0587

写真himg0593

西面
┌─―――――――――――――――――┐
│右 大日ミち            │
│左 太山寺道            │
└――――――――――――――――――┘

南面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では長田区1)
(同書に「この道標は長坂道の追分に立っていたが、道路拡張工事の際、明泉寺境内に移したといわれている。」と
 あり、別の資料として、Webで明泉寺(大日寺)御住職の『大日寺物語』に「明泉寺橋を渡り、少し坂を上ると左
 へ入る細道があり、古くはこの道を大道または上の道と称し、…今工事中の山すそに沿いながら、堀切の方へ通じ
 たもので、その分かれ道の角にありました道標は…」とすること等から察すると
N34.678646 E135.144679
 長田区明泉寺町1−8、辺りの三ツ辻北部に南面して建っていたと想像する。現在では広い道から北西に保育所の
 下の方へと続く細い道が分岐していた。これが上記の「大道」であろうが、未調査である。)
(「右大日みち」は明泉寺(大日寺)への道で北300m程であるが、「左太山寺道」は西区伊川谷の太山寺迄、直線
 でも7km以上と思われ。明治の地図では堀切へ出る川沿いの道さへ書かれておらず、その後白川へ出る道筋も西の
 車か、北西尾根筋を現ひよどり台に採るかが判断できるほどの道がない。ただ前述の資料から、ここでは大日川の
 左岸を登る道が最短であったものであろう。)
(『明泉寺略縁起』によると、「観応二年(1351)当地に復興」とあり、道標はこれ以降の建立とおもわれるので、
 上記元の位置にあって「右、大日ミち」は今のバス通りを示して問題はないでしょう。)
(南は「神戸市長田区長田町4の道標」より続く道標であったものか。)

写真himg0577 写真himg0614 写真himg0578
【1.山門から道標を北に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を北東に望む
 灯籠と鉄柱の間で  灯籠後ろは本堂  右後ろは茶色の甕
 植込みに隠れる】  右「大」瓦の後ろ】  左が当道標】

写真himg0607 写真himg0598 写真himg0602
【4.道標南面左中部 【5.道標南面拡大 【6.道標南面右中部
 「太山寺」と  右下は「ミち」  「大日」と
 読める】  左下は「道」】  読める】

写真himg0570 写真himg0576 写真himg0575
【7.元位置を北に望む 【8.山門を北に望む 【9.明泉寺略縁起を
 右端の小さいポスト  「史跡平智章墓」  西に望む、山門下
 辺りではないか】  「寺内南西隅」今北西】  1351年当地に復興】

写真gimg6517
【10.神戸市中部の道標】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ