10.神戸市須磨区大手町9丁目勝福寺山門の道標

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神戸市須磨区大手町9丁目1−1 勝福寺山門階段下西前に南東を正面に建つ
自然石 143x81x44p
N34.660373 E135.126521


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南東面
┌─―――――――――――――――――――┐
│  兵庫つきし満供養          │
│   本尊 並 者多等阿里       │
│従是勝福寺 江             │
│      三丁余           │
└――――――――――――――――――――┘
(「満者多阿里」は変体仮名「まはたあり」であろう)

北東面
┌─―――――――――――――――――――┐
│   平…               │
│  兵庫つきし満供養          │
│   本尊 並 者多等阿里       │
└――――――――――――――――――――┘
(「平…/兵庫築嶋供養/本尊並旗等有り」か)

北西面
┌─―――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

南西面
┌─―――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘


(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では須磨区2)
(同書には「蜀山人の見た道しるべであろう。…もとこの道標は西国街道あったが、拡幅改修工事の際に山門前に移
 した。…築島寺にて清盛の供養を行ったときの本尊およびはた(幢)並びに仏具を保管されている…」とある。)
(国立国会図書館デジタルアーカイブの『蜀山人全集.巻1』吉川弘文館の『革令紀行』のコマ97に
 「十九日 …西柳原町をすぎて…土橋をわたりて左に『前武州刺史知章墓』…見過ごしぬ、右に…長田大明神の石
 の鳥居あり、…右に溜池あり(蓮池か)、…左に溜池あり、右に石の鳥居あり、側に石表あり、『従是勝福寺へ三
 丁余 平相国 兵庫築嶋 本尊』としるせり、この寺には平家の宝物あまたありという、」とあり、この道標では
 ないかと思える記述が有る。異なる点は「供養」と次行「並 者多等」が無く、「平相国」が付いている事である。
 これは国立国会図書館デジタルアーカイブの『攝津名所圖會』. [10]のコマ番号17の案内に「…弘法大師の錫杖、
 築嶋供養の本尊、十六善神像、同幡(ハタ)十四流、…平相国寄附の武□寺…」とある様に、一般的に「ハタ等」
 を寄附したのは「平相国(清盛)」とされており、無意識に「平相国」を追加したものと思っていた。
  が、何と正面には無いが、右面(北東面)上部右に「平」の字があり、その下には「乃し…ふこく」らしきも見
 える。即ち省略部を除き、当道標の銘と完全に一致しているとしても良いと思う。
 『革令紀行』の石の鳥居は、摂津名所図会にも描かれており聖霊権現(證誠神社)への参道口にあり、その奥には
 勝福寺も書き、図中に「勝福寺門より七丁」の文字も見える。この石の鳥居は現在(2020)では確認できないが、
 鳥居の脇に石表があるのは自然である。
  当道標がこの石表なら、文化元年八月十九日(1804年9月9日土曜日)『革令紀行』以前の建立となろう。)
(元位置について、寺(山門)より三丁余を3.5丁迄(330〜380m)とすると、現神戸大手前郵便局辺りとなり、
 明治の地図でその辺りの辻を探すと二ヶ所の候補が挙げられる。
 一点は須磨区大手町2丁目5の
N34.658346 E135.128679
 現、オノ桐神社の東の辻か
 二点目は、その南東140mとなる須磨区大手町2丁目4−1の
N34.657896 E135.130106
 辺りの四辻(南から見ると三方へ分岐する)となる。
 ただ、南の第二地点でさえ前述の革令紀行の作者が通ったと思われる西国街道(山陽道)大田町7丁目1の三ツ辻
 第三候補地点(文化元年の設置地点)
N34.654822 E135.132671
 迄は400m以上離れている。
 (名所図会(コマ11)で、街道から門まで880mか、権現神社から門まで630mか、何処迄かは明確ではないが、
 「七丁(760m)」としているので、西国街道に置かれた場合山門までは「七丁余」が正解であろう。)
  石が動いたか、寺が移ったか、寺域が狭くなったのか、可能性が高いのは石の移設であろう。即ち文化元年八月
 十九日には既に、旧西国街道の北側に移設されていたものと理解し、建設時は上記の二点の何方かであった思う。
 一点目の方は移設させられる可能性が少ないと思われるので、二点目(大手の集落南端)を元位置としたい。
 移設理由は、村の道普請であったか、街道筋から寺への参詣者に便を図った為かは知らない。
  尚、『神戸の道標』にもあるように西国街道改修工事まで有った地点は県道21号沿いとし、昭和22年地図で
 は細く、昭和45年には太くなっており、この間に山門前に移設されたと考えられる。)
(階段を登り山門を抜け正面に再建の本堂、東15m辺りに「福寺境内1の道標」等二基が移設されている。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を南東に望む
 右階段、勝福寺へ  階段上、山門  奥(南東)山電を越え
 手前(南)山麓線へ】  階段左に当道標】  證誠神社(権現)へ】

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【4.道標を北西に望む 【5.道標南東面中央 【6.道標南東面右部
 右は寺の解説板  中央に「従是勝福寺」  「兵庫つきし満…」
 寺標代わりの道標】  右に、浅く寺の案内】  「本尊並者多等…」】

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【7.道標北西面拡大 【8.道標南東面下部 【9.道標北東面拡大
 背面に当たるが  右「江」は「え」で  「兵庫つきし満…」
 銘は無いようだ】  「…へ三丁余」と読む】  は南東面と同じ】

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【10.道標北東面上部右 【11.道標北東面上部 【12.道標北東面下部
 「兵庫…」右に「平」  「兵庫つきし満…」  「…し満供養」
 と読めるが下は?】  「本尊 並 者…」】  「…多等阿里」】

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【13.勝福寺を北に望む 【14.元候補2を北に望む 【15.元候補3を北に望む
 正面本堂、右奥15m  左、オノ桐神社から  左右が西国街道
 に道標二基あり】  勝福寺へ】  奥、證誠神社、勝福寺へ】

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【16.神戸市西西部の道標】
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