神戸市須磨区大手町9丁目 勝福寺境内北東部、鐘楼の北側に南を正面に建つ
(西隣に「福寺境内2の道標」が建つ)
尖頭型角柱 213x37x26(頂高不明、高さに含まず)
N34.660805 E135.126727




南面
┌─―――――――――――――――――――┐
│桂尾山 │
│ 八十八ヶ所 │
│勝福寺 │
└――――――――――――――――――――┘
東面
┌─―――――――――――――――――――┐
│(なし) │
└――――――――――――――――――――┘
北面
┌─―――――――――――――――――――┐
│ 発 … │
│大正十四年三月建之 起 … 三井橋詰 │
│ 人 … 石工 山内│
└――――――――――――――――――――┘
(発起人二名、他団体等十四名、石工一名)
西面
┌─―――――――――――――――――――┐
│ 是ヨリ山手三丁 │
└――――――――――――――――――――┘
(大正十四年は西暦1925年。)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では須磨区1)
(同書には「大手町1丁目山陽電鉄踏切北」とあり、掲載写真からは東に面していた様に見える。)
(こちらは西面に「三丁」とあるが、当寺を示すか、八十八ヶ所巡りが三丁なのかが少し問題になる。
勝福寺は摂津国八十八ヶ所霊場の第八十七番札所の様で、境内には四国八十八所巡りが出来る山伝いの道があり、
88体の石仏が置かれているようである。自身の寺を表現する場合は「…ヶ所霊場XX番」と書かれることが多く、
南面の「八十八ヶ所」は寺にある霊場を示したものと思うが、それが有る「勝福寺」を案内するものでもあろう。
依って、「勝福寺山門の道標」で述べたように寺から三丁南の第一候補地点、須磨区大手町2丁目5の
N34.658346 E135.128679
現、オノ桐神社(小さな祠があるだけ)の東の辻に置かれていたものと思う。
大正12年測図の地図もほぼ現状と同じ道が見える。)
(勝福寺は国立国会図書館デジタルアーカイブの『攝津名所圖會』. [10]のコマ番号17にも載り、弘法大師との縁も深
いようで八十八ヶ所巡りをここに作るのは不思議ではないが、案内の主にするのは流行の為でもあろうか。
現在(2020)では、八十八ヶ所巡りの出口に立っており、此処を北に入ると「逆打ち」の看板があった。山門の
階段下を南西に50m山側に「八十八ヶ所巡り」建設碑があり、90mに順礼入口があるが、門扉が作られている。
建設碑には「大正十四年三月工終」と有るので霊場完成と同時に建てられたことが分る。)
(北面下部、発起人等の詳細は下部に記載。)
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【1.道標を北東に望む |
【2.道標を北に望む |
【3.道標を北西に望む |
右、鐘楼 |
道標右奥八十八巡りへ |
左奥が本殿か |
中央左に当道標】 |
鐘は昭和二十六年】 |
右手に逆打ちと有った】 |
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【4.道標南面拡大 |
【5.道標南面中部 |
【6.道標を北面上部 |
高さ213pは |
元は東面してたか |
「大正十四年三月」 |
道標の南面部のみ】 |
八十八ヶ所が主か】 |
と読める】 |
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【7.道標西面拡大 |
【8.道標を北面中部 |
【9.道標を北面下部 |
「山手三丁」は |
「発起人」は |
右端縦に |
北を示すと思う】 |
右から左へ書く】 |
「観音講」も見える】 |
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【10.道標元辻を西に望む |
【11.八十八ヶ所建設碑 |
【12.八十八ヶ所巡礼口を |
辻東部右枠外辺りか |
北西(背)面拡大 |
南西に望む |
左、オノ桐神社】 |
左「…三月工終」】 |
門扉に鍵は無さそう】 |
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【13.神戸市南西部の道標】 |
(北面中下部の詳細、住所は右肩に小さく彫る。)
北面中部
発 東須磨 宮本英次
起
人 大手 森 岩松
北面下部
大手 観音講 大手□崎□吉 東須磨山門畳店
西須磨尾崎電気商会 仝 清水美夫 仝 北野土商
仝 摂津木材会社 仝 山口磯吉 兵庫 山岡水道店
東須磨吉川材木店 鷹取三木煉瓦店 三井橋詰
二番町中谷広吉材木店 仝 鳥井材木店 石工
兵庫小林建具製作所 山内
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