1.大阪市此花区伝法5の道標

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大阪市此花区伝法5−7−4 国道43号伝法4交差点を西へ290mの西念寺門前三ツ辻に南を正面に建つ
蒲鉾型角柱 109x30x21p(頂高2p)、東西面に上部から14pに幅1.5p深さ1pの溝あり
N34.687759 E135.447839


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南面
┌─―――――――――――――――――――┐
│ 右 てんま              │
│大坂道                 │
│ 左 あまがさき            │
└――――――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――――――┐
│ 尼崎本街道              │
└――――――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載)
(ご近所の方の話では「東から寺の正面にきて北を廻る道が旧道であろう」との事。東面の「尼崎本街道」
 の表現や石の新しさ等から明治期以降と考え、新淀川が付け替えられた以降ならば左岸の堤防上へ出た後、
 上流の西成大橋を渡る道が「尼崎本街道」と解釈され、「左あまがさき」が不都合である。明治44年の
 地図で下流側(左)に酉島町から北福町へ大浦渡しがありこれを本街道とするなら現位置で満足出来る。
 一方の「右てんま」は堤防上に出ることなく、東へ進み今の阪神伝法の駅から千鳥橋、朝日橋を渡り野田
 を経由する道を示すと思われ、現位置で問題はない。尚、この右への道は明治12年の地図では中津川に
 阻まれ天満に行くには南行して森巣橋を渡る道となり、現在地にある限り向きを変えておく必要がある。
  結論として、現在地に今のまま設置されており、尼崎本街道は下流酉島から大浦渡し(昭和9年地図で
 は福村渡し)を経て現西淀川区福町2に上陸し、中島、辰巳、大物、尼崎であったとする。)
(明治時代の道標で右側面の「尼崎本街道」は良しとしても、正面の中央「大坂道」は何を意味するのか、
 理解に苦しむ道標である。
  当道標の南300m程に位置する「伝法6の正連寺前の道標」に「左大坂道」とする表現があるが、これ
 は地名としての「大坂」への道と受け取れるが、この道標では方向を指示せず正面中央に街道名称の様に
 書かれている。「尼崎本街道」=「大坂道」と感じてしまう。尚、「尼崎街道」の様に道全体を案内する
 のは明治九(1876)年太政官布告以降の事と思われ、明治二十四年訓令『大阪府地理土木法規、明治25年』
 に「二十三年(1890年)四月訓令第二十八号地方税支弁道路橋梁修築及補助の道路橋梁修築取扱手続左の
 通改正」とあり、その中に「尼崎街道:西成郡九条村大字九条より同郡千船村大字佃楳田街道迄」とした
 様で、この頃以降の建立であろう。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を北東に望む
 奥(西)伝法水門へ  次の辻右、淀川堤防へ  奥、伝法4交差点へ
 昔、大浦渡しへ】  左端が当道標】  右、此花通(堤跡)へ】

写真himg3653 写真himg3651 写真himg3652
【4.道標を北西に望む 【5.道標南面拡大 【6.道標東面拡大
 左面「右 てんま…」  中央「大坂道」は  「尼崎本街道」ならば
 右面「尼崎本街道」】  何を意味するのか】  脇街道が有ったか】

写真himg3793 写真himg3794
【7.明治44年地図 【8.明治17〜23年地図
 左に大浦渡、福村  新淀川が無く右(東)
 から西に尼崎街道】  は中津川で難しそう】

写真himg2312
【9.大阪市福島区の道標】
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