17.大阪市生野区巽東1の道標2(河内国内)

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大阪市生野区巽東1−10−17 法泉寺東の道を南へ次の筋違い四ツ辻の北西部に南を正面に建つ
尖頭型角柱 69x26x25.5p(頂高7p)(北面高72p)
N34.649234 E135.555149


写真himg5714

写真himg5715

写真himg5717

写真himg5720

南面
┌─――――――――――┐
│右 大坂       │
└―――――――――――┘

東面
┌─――――――――――┐
│左 信貴山      │
└―――――――――――┘

北面
┌─――――――――――┐
│天保四巳年七月    │
└―――――――――――┘

西面
┌─――――――――――┐
│ 實誉□□釋禅    │
│去誉者□曽宅門    │
│ □誉□□□禅    │
└―――――――――――┘
(それらしい字を充ててみた)


(天保四(癸巳)年七月1日とすると、西暦1833年8月15日木曜日となる。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、420
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(生野区中川、中川東迄が摂津の国で南の巽北に入ると河内国となる様で、河内の道標となり対象外であるが、調べ
 てみたので載せておく。明治の地図では「伊賀ケ(イカガ)」と成っている。)
(北の「生野区巽東1道標」からここまでは僅か120mであり、案内する先もまるっきり同じである。集落中に屈曲
 が多く正しく通過する為に設けられていたと考えられ、この位置に有るのは不思議でないが設置の向きが変わって
 いるようである。「右大坂」が北を指し、「左信貴山」が東を指すためには、現南面が東面(反時計回りに90度)
 している必要があり、明治の地図では南への道が無い三ツ辻に見えるので、辻南部に置かれていたのではないかと
 思う。即ち北の大阪方面から信貴山に向かい南下してくると、突当りの正面に「左信貴山」が見えたと考える。
 依って、辻内の近接移動としたい。)
(尚、前述の「生野区巽東1」等の「光明院」一連の道標とは大きさも違い、「大坂」「大阪」等も異なり案内先は
 同じでも、製作者には関連が無いものと思う。)
(西面は良く読めないが戒名のように見える。只、「為、供養」等の文字が無く定かではない。読み下しは怪しい。)

写真himg5711 写真himg5708 写真himg5749
【1.道標を南西に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を西に望む
 戦前は左奥の道は  奥(東)信貴山へ  奥(西)70m内環へ
 無かったと思う】  左、大阪方面へ】  左電信柱が元位置か】

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【4.道標を北西に望む 【5.道標南面拡大 【6.道標東面拡大
 左は内環状へ  「右大坂」現状では  「左信貴山」現状では
 右は巽東1道標へ】  北か東となる】  南か西となる】

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【7.道標北面上部 【8.道標西面上部 【9.道標西面下部
 「天保四…」「天」は  中央一字目から  中央下部の「門」
 上に出ている様にも】  読めないが】  程度しか分らない】

写真himg5738
【10.道標北面下部
 「…四巳年七月」
 と読める】

写真himg2318
【11.大阪市生野区の道標】
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