3.大阪市都島区中野町2の道標

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大阪市都島区中野町2−16−20 都島区役所、玄関北側に東を正面に建つ
ドーム型角柱 140x31x30p(頂高5p)
N34.701358 E135.528269


写真himg5875

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写真himg5880

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東面
┌─―――――――――――――┐
│    日下 たき     │
│右 なら のざき      │
│    生駒山宝山寺    │
└――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――┐
│左リ 京ばし        │
└――――――――――――――┘
(「ば」は変体仮名「者」に濁点)

西面
┌─―――――――――――――┐
│干時天保十五甲辰歳十月建之 │
└――――――――――――――┘

南面
┌─―――――――――――――┐
│   惣世話人       │
└――――――――――――――┘


(天保十五(甲辰)年十月1日とすると、西暦1844年11月10日日曜日となる。天保は12月1日迄。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、133
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、24頁。)
(東面「日下」は東大阪市日下町、「のざき」は大東市野崎或いは野崎観音、「生駒山宝山寺」は生駒市門前町より
 もそのままの名前で分る。「なら」は「奈良」で異論のない所、では「たき」が何処であろうか。大東市から阪奈
 道路の上り途中に瀧間があり方向的には問題が無いが、これを「たき」と呼んでいたかは分らない。河内国絵図等
 にも「瀧間村」とある。)
(『研究紀要』には所在地として「都島区相生町、片町駅西片町橋西詰」とあるので片町交差点だと思うが、明治の
 地図で見ると片町橋が無く、相生町で見当を付けると辻の候補は二点で、片町1丁目2の辻か、その北東150mの
 現、片町東交差点であろう。市立図書館デジタルアーカイブの『弘化改正大坂細見図(大阪古地図集成第14図)』
 弘化二年(1845)で見てみると、「京ハシ」を越え東に進む「京街道」の屈曲点で鯰江川にに架かる「野田ハシ」
 を北に渡るのが京街道で、古大和川沿いに東に進む道が「右なら…」とする道と思われる。よって三ツ辻北東部に
 現在(2021)の東面を西面させて建っていたと思われる。現在の地図でその場所を比定するのは難しいが
N34.693905 E135.527899
 辺りの、片町東交差点内と考える。)
(頭頂部の形状を「ドーム型」と表現したが、角柱の四隅には稜線がシッカリと出ており、中央部にかけて丸みを帯
 びる丁寧な仕上げである。大阪市内ではあまり見かけないように感じる。)
(紀年銘「干時」は「トキニ」と読み、数は少ないがハッキリと読めるものでは「神戸市須磨区須磨寺町4の道標」
 等がある。)
(『大阪の街道と道標』に惣世話人の左下に「□□?八」とする記述が有るが読めなかった。埋没しているのかも知
 れないが左側にスペースは少ない。むしろ「世」の右辺りが怪しいが文字ではないと思う。)

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【1.道標を南西に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を南西に望む
 右後ろ都島区役所  自転車置き場の西  「左リ京ばし」が北面
 二本の木の間に道標】  一段高い植込み中】  後、区役所玄関】

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【4.道標西面上部 【5.道標東面上部 【6.道標南面拡大
 「干時天保十五…」  「右 なら…」  「左リ 京ばし」
 と読める】  大きく書く】  「ば」は変体仮名「者゛」】

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【7.道標西面下部 【8.道標東面下部 【9.道標南面下部
 「…歳十月建之」  「日下…」  「惣世話人」とした
 と読める】  「…寶山寺」は小さい】  名前は見えず】

写真himg5904
【10.道標上部を西に望む
 ドーム型とした
 四隅は稜線がある】

写真himg2313
【11.大阪市北区の道標】
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