1.大阪市城東区今福南2の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
大阪市城東区今福南2−12−31 寝屋川北岸石切大坂線180m北の旧道北側の皇大神社本殿西に南を正面に建つ
常夜灯竿部 竿部144x30x31p
(台石21x62x63p、火袋台17x47x47p、火袋30x30x30p、笠と宝珠55x68x71p)
N34.697672 E135.550785


写真himg6061

写真himg6001

写真himg6002

写真himg5997

【火袋台部】 【竿部】
南面
┌─――┐
│世  │
│話  │┌─―――――――――――――――┐
│人  ││          角田佐助  │
│角弥 ││天保三年      御船川清兵衛│
│今佐 ││      世話方 野田屋伝蔵 │
│元九 ││ 壬辰三月吉祥日  炭屋惣吉  │
│釼傳 ││          東ノ惣兵衛 │
│油儀 ││         栄田助左衛門 │
│東嘉 │└――――――――――――――――┘
│中市 │
└―――┘

東面
┌─――┐
│安  │
│政  │
│六  │┌─―――――――――――――――┐
│己  ││  當村 山上講        │
│未  │└――――――――――――――――┘
│年  │
│三  │
│月  │
└―――┘

北面
┌─――┐┌─―――――――――――――――┐
│常  ││   のざき          │
│夜  ││右ハ     道        │
│燈  ││   ならいせ         │
└―――┘└――――――――――――――――┘

西面
┌─――┐
│大  │
│峯  │┌─―――――――――――――――┐
│山  ││左り 大坂道          │
│上  │└――――――――――――――――┘
│   │
└―――┘


(天保三(壬辰)年三月1日とすると、西暦1832年4月1日日曜日となる。この年閏十一月あり。
 安政六(己未)年三月1日とすると、西暦1859年4月3日日曜日となる。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、336
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(皇大神宮は「こうたい」と読むらしい。当道標について、神主さんのお話では「元は神社西の四辻に置かれていた
 もので、都合によりここに移設された。昔は神社の南に小川が流れその北側の道が、西から東に向かう旧街道筋で
 川の南にも細い道があったが、川を埋め一本の道に成ってしまった。」との事である。明治の地図で見ると、ほぼ
 その通りであるが、神社の西90mにある現四ツ辻より西の道がよく見えず、三ツ辻であったように見える。今では
 四辻から西への道は新喜多橋の北詰に直接出るが、当時(明治以前)はこの三ツ辻を一度南に折れて、40m先の辻
 で南西に折れて寺の前を過ぎ、寝屋川北岸に突当った後、西に曲がり村中を抜け新喜多橋北詰に出たと思われる。
 依って現西面「左リ大坂」は南を指し、同北面「右ハのざき」は東を示す必要があり、現在の北面は南面させられ
 て、三ツ辻の西部(突当り)に建っていたと思う。現在(2021)の城東区今福南1−5−15の駐車場の北
N34.697471 E135.549735
 辺りになると思う。)
(施主と思われる「山上講」は既に存在しないようだが、「別の大峯山の講が一つだけ残っいるが、これもいつまで
 続くかはわからない。」又、「火袋台の年号と竿部の紀年銘が異なるのは、上部が壊れて作り直したものと思う。」
 ともお聞きした。嘉永七年十一月五日(1854年12月24日日曜日)に起きた所謂「安政の大地震」で壊れたものか。)
(この道標を西「大坂」ヘ辿れば、「都島区中野町2の道」の元位置に出ると思われる。
 御城の北の京橋迄三十丁(約3km)も無かったと思う。)
(世話人に並ぶ名前は人名とは思えず、屋号か何かであろうか。)

写真himg5994 写真himg6016 写真himg6010
【1.道標を北東に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を北西に望む
 左、竹門横に当道標  左奥、鳥居へ  狛犬後、古い常夜灯
 後は、本殿】  右奥、通用口へ】  竿部に案内がある】

写真himg6014 写真himg6062 写真himg6009
【4.道標を北東に望む 【5.道標南面全体 【6.常夜灯東面上部
 「左リ大坂道」が  神社の正面を向く  火袋台に
 東面してたと思う】  ので正面とした】  「安政六己未三月】

写真himg6031 写真himg6020 写真himg6024
【7.道標南面上部 【8.道標北面上部 【9.道標西面拡大
 「天保三年…」  「右ハ」野崎、  「左リ 大坂道」
 「…三月吉…」とある】  奈良、伊勢と続く】  いたって単純】

写真himg6059 写真himg6021 写真himg6037
【10.道標南面下部 【11.道標北面下部 【12.道標北面拡大
 世話方「角田…」  「のざき」  「當村 山上講」
 「…助左衛門」6名】  「なら いせ」とある】  は大峯山の講らしい】

写真himg6039 写真himg6038 写真himg6018
【13.火袋台南面 【14.火袋台東面 【15.火袋台北面
 「世話人」以下  「安政六…」  「常夜燈」
 七つ縦に屋号か】  竿部より27年後】  と読める】

写真himg6050
【16.元位置の四辻(元三ツ辻)
 を西に望む、西の道が無く
 中央辺りに建っていたか
 「大坂」へは左に曲がる】

写真himg2313 写真himg2314
【17.大阪市北区の道標】 【18.大阪市鶴見区の道標】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ