2.大阪市城東区放出東3の道標

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大阪市城東区放出東3−31−18 中高野街道の西、阿遅速雄神社、東門入り北側に南を正面に建つ
角柱 98x23x23p(下から28pに3x3oの横罫線)
N34.688777 E135.565518


写真himg6076

写真himg6079

写真himg6081

写真himg6083

南面
┌─――――――――――――――――――┐
│大峯            右 稲田 │
│  五十三度詣 願主元七       │
│山上            左 大坂 │
└―――――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――――┐
│          若中  右 平野 │
│天保十五歳次甲辰三月         │
│          同行中 左 守口 │
└―――――――――――――――――――┘


(天保十五(甲辰)年三月1日とすると、西暦1844年4月18日木曜日となる。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、337
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(当地を明治の地図で見ると、南の森河内から長瀬川、楠根川(第二寝屋川)の二川を越えた道(中高野街道)が、
 東西の今津、鴫野を結ぶ道との筋違い四辻を過ぎ、北に40m地点の西側に当る。依って、元々はこの辻に置かれて
 いたと考えるのが最も自然であろう。辻の形状と案内先を考えると、辻北東部に現在の向きのまま置くと、南面の
 「右、稲田」が東の現東大阪市稲田を指し、「左、大坂」は西、西面の「右、平野」は南、「左、守口」は北、と
 問題は見られない。
N34.688484 E135.565611
 鶴見区放出東3−32−13辺りとなろう。道を挟んで40mの移設としたい。
  南北の道は「平野守口線」府道159号線のようで、北630m正因寺の植込みに、市教育委員会の「中高野街道碑」
 が設けられていた。『大阪の街道と道標』では守口、平野間を「放出街道」としている。)
(大坂方面に進めば、楠根川沿いに今福に出て古堤街道に合流し、「城東区今福南2の道標」の元位置と思われる辻
 をかすめて大坂に進むものと思う。)

写真himg6072 写真himg6074 写真himg6111
【1.道標を北西に望む 【2.道標を西に望む 【3.道標を南東に望む
 門右端軒下辺り  中央に当道標東面  右、楼門
 玉垣に隠れ見えず】  左端に社務所】  玉垣の前に当道標】

写真himg6122 写真himg6091 写真himg6087
【4.道標を北に望む 【5.道標西面上部 【6.道標南面上部
 右奥、放出大橋へ  「天保十五歳…」  「大峯山五十三度…」
 手前(南)放出駅へ】  と読める】  「三十三」ではない】

写真himg6110 写真himg6092 写真himg6089
【7.道標下部を北東に望む 【8.道標西面中部 【9.道標南面中部
 罫線より下部を道標に  「…甲辰三月」  右上小さく「願主」
 この角が辻中央に向くか】  「若中、同行中」とある】  「元七」とある】

写真himg6115 写真himg6093 写真himg6090
【10.神木を東に望む 【11.道標西面下部 【12.道標南面下部
 道標は神木の後ろ  「右、平野」  「右、稲田」
 鳥居前の楼門北側】  「左、守口」とある】  「左、大坂」とある】

写真himg6066
【13.北630m正因寺前植込みの
 中高野街道碑を北西に望む
 「京街道から分かれて…」とある】

写真himg2314
【14.大阪市鶴見区の道標】
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